2007年9月20日木曜日

母の告別式でのお礼のあいさつ

本日は、忙しいところ、故・渡久地敏子の葬儀にご参列いただきまして心から感謝申し上げます。
遺族を代表して、一言お礼のご挨拶を申し上げさせていただきます。

母は、9月14日、金曜日の台風11号が吹き荒れている、午後9時頃、心肺が停止した状態で、入所していた老健施設から救急病院に搬送されました。
心臓は一時回復しましたが、よく9月15日の午前8時47分に、静かに息を引き取りました。
89歳で生涯を閉じました。

あまりにも突然で、母との最後の話もできませんでした。
「親孝行したいときは親はなし」。無念でなりません。
しかし、ほんとに安らかに気持ちよさそうに眠っているような表情で、旅立っていったのが、何よりの救いです。

母は、尋常高等小学校、国民学校を卒業、奉公に出され、そこでは辛い仕事に耐えたそうです。その後、県の教育会の昭和会館につとめ、首里城内にあった郷土博物館に勤めたそうです。
1945年の沖縄戦では、同世代のみなさんと同様の悲惨な体験を味わっています。その時の、艦砲射撃の爆弾で、頭、顔に負傷して、傷跡が残っていました。

戦後は、避難民の集まった石川で区の婦人会長も勤め戦後の復興、避難民の支援にも力を尽くしたと聞いています。首里に帰ってからは、首里市役所の産業課に勤務したようですが、結婚を機に退職し、寒川町で渡久地商店を営みはじめました。

私たち兄弟には、この渡久地商店での記憶が鮮明に残っています。
夜明け前から農連市場に買い出しに行ったこと、米や石油の量り売り、台風時には、隣近所の方々が、嵐のなか、缶詰やロウソクなどを買いに来たことなど、いろんなことが思い出されます。
母は、お店に来るお客さんのことを常に気遣い、お店を閉めることは滅多にありませんでした。

母には、このお店が生き甲斐だったと思います。そういう意味では、母と私たち家族は寒川町をはじめ、地域のみなさんに支えられて来ました。

母は、とても我慢強く、寡黙な人でした。
生活が苦しくても、いろんな困難にあっても、愚痴一つ言わずに、とにかく黙々と一生懸命に働き、生き抜いて、渡久地商店を守り、家庭のことにとがんばっていました。

そんな母でしたが、生き甲斐だった渡久地商店も、スーパーや大型店の相次ぐ出店などにより、客足はどんどん少なくなっていきました。
そして、11年前に父・朝助が他界してからは、寡黙な母が、さらに寡黙になっていくようになり、数年前に渡久地商店50年余の歴史に幕を閉じました。

母と渡久地商店の歴史は、沖縄の戦前、戦後の歴史と、世相の変遷をよく表しているように思われてなりません。

母は、この地で生まれ、この地で、生き、そしてこの地で渡久地商店を営むことができて幸せだったと思います。また、私たち家族はそんな母を誇りに思っています。

長年にわたり、母を支えてくださいましたみなさんに、心から御礼を申し上げるものです。

私たちは、悲惨な戦争を生き抜き、戦後の米軍占領下の苦難な歴史を生き抜いてきた、母をはじめ、先人達の生き様を、こども達や孫達に正しく伝えていくために、そして、母・渡久地敏子の、一生懸命に生き抜いてきた姿に学んで、これから、それぞれの分野で社会に貢献できるようにがんばっていきたいと思っています。

みなさんの、母にお寄せいただきました、ご厚情を遺族にもお寄せいただきますよう、心からお願い申し上げまして、遺族を代表してのごあいさつといたします。
本日は誠にありがとうございました。

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