2007年10月31日水曜日

沖国大への米軍ヘリ墜落・・・「かすかに覚えている」と福田総理

こんな人達が、沖縄の基地問題を論じているのと思うと恐ろしくなる。

��0日の衆院特別委員会で、日本共産党の笠井亮議員が、3年前の沖国大へのヘリ墜落事故について聞いたところ、

「かすかに覚えている」と答弁。

ほんとに覚えているのか疑いたくなるような答弁である。

質問した笠井氏も、これには正直ビックリしたのではないだろうか。

口では、「沖縄県民の負担軽減」といいながら、実際は、沖縄県民が基地によって苦しめられていることをまったく意に介していないことを見事に表した一幕である。

こんな自民党政治を一刻も早く終わらせたいものである。


2007年10月30日火曜日

運動会の場所取り風景

一昨日は、市内各地で小中学校の運動会が開催された。

私たちが小さい頃、子どもたちの晴れ姿を近くから見ようと、家族は前日の晩から場所取りに出かけていった。早い人では、夕方からむしろを持って一番いい席を確保するために一生懸命だった。

むしろを敷き、風に飛ばされないように石ころの重りを四方においてから帰っていった。

朝方来た人達は、ほとんどが、すでに手遅れだった。

しかし、中には前日に一番いい席を取ったはずだのに、風でムシロが校庭の隅に無惨にも飛ばされたりしていることもあり、地団駄を踏んだこともあった。

また、当日遅く来た人達が、図々しく一番いい人の席の前に陣取ることもあったりして、子どもの運動会は、親や兄達の陣取り合戦でもあった。

そんな光景も、学校側の陣取り自粛要請や、時代の流れとともになくなっていった。

・・・と思っていた。

ところが、一昨日、朝の6時半からのラジオ体操に出かけていったら、この陣取り合戦に出くわした。

すでに、前日の夕方から晩にはすでに勝負がついているのであろう。人影はなく、昔のムシロではないが、青、緑のいわゆるブルーシートと言われているものがびっしりと敷かれていた。

昔も今も、自分の子どもを一番いい席で見たいという親心は変わっていないようである。

今日は、楽しい運動会になるだろうと思いながら、携帯電話機で写真をパチリ。

西の空には、まあるいおつきさんがほほえましく輝いていた。

 
場所取り合戦のシート  


西の空のお月さん

2007年10月29日月曜日

とぐちおさむを県政へ・はげますつどい

昨日、「とぐちおさむを県政へ・はげますつどい」が首里農協ホールで開催されました。

昨日は、ほとんどの学校が運動会で、また、旗頭や、各町の行事、18夜などと重なるなどしましたが、会場いっぱいの250人が参加していいただきました。

このような集まりは初めてという人も多く参加していました。

ありがとうございました。

とぐちおさむも多くのみなさんから激励を受けましたが、勝利めざして全力でがんばります。



2007年10月27日土曜日

沖縄県産業祭りを視察

今日、午後から県議予定候補4人そろって、沖縄県産業祭りを視察してきました。

失業率が全国の2倍となっている沖縄の産業の発展は県政の大きな課題です。

農漁業をはじめとした、地場産業の振興と観光産業の発展な、また、新たな分野の産業の振興など、課題は山積しています。

今日の会場では、いろんな分野の出店がありました。特に、健康産業など沖縄の特産を生かした産業に挑戦していることが目につきました。

大いに力を合わせて沖縄の産業の発展にがんばりたいものです。


2007年10月26日金曜日

国会での証人喚問、赤嶺さんがんばって。

��0月28日(日)に「とぐちおさむさんを県政へ・はげますつどい」が開催されますが、予定していた赤嶺政賢衆院議員が参加できないことになった。

理由は、翌日の29日に、前防衛事務次官の国会証人喚問が決まり、赤嶺さんが日本共産党を代表して質問をすることになったとのことで、その準備のためだという。

みんなに報告したら、「当然だ、こんな大問題は徹底的にあばいてほしい」とのことで、誰一人文句を言う人はいない。

軍需産業と防衛省官僚、政治家の癒着は、絶対に許してはならない。結局、国民の税金を食い物にしているのである。

この人達は、普天間基地の移設とからんで、沖縄の負担軽減といいながら、実態は、利権争いとの話しをよく聞くが、まさにその通りだと言うことを、今回の事件は示しているのではないだろうか。

軍需産業と官僚、政治家の癒着を止めるためには、日本共産党をぜひのばしてもらいたい。

2007年10月25日木曜日

同期生からの思わぬ差し入れ

今日、朝立ち宣伝を行なっていたところ、中学・高校と同級生だった、K氏がひょこっりと現われビックリ。

近くで仕事をしているとのこと。

宣伝カーに掲げているノボリが風でまいあがり、困っていることに話題が及ぶと、任せておけといって去ってしまった。

声を出しての訴えが、終盤に差しかかった頃合いに、K氏が戻ってきて、人包みの袋を手渡した。

中身は、ノボリが舞い上がらないように、つり用の鉛を使った、文字通りのノボリのオモリだった。

大変大助かりです。

��さん、ありがとう。早速使わせていただきます。

2007年10月24日水曜日

28日にはげますつどい

10月28日(日)、午後7時から首里農協ホールで「とぐちおさむをはげますつどい」が開催されます。
多くのみなさんの参加をお願いします。

2007年10月23日火曜日

うれしい電話

今朝、事務所ではげますつどいのはがきを印刷しているときに、突然電話が鳴った。

金城町にお住まいの外間さんからだった。

外間さんには、昨日、教科書検定意見撤回を求める東京要請行動の報告集を手渡していた。

早速読んだとのことで、「とても感動した。いい報告集だ。こういうこともあったと自分の知り合いに配りたい。カラオケサークル、モアイのメンバーにも読んでもらいたいのであと30部ほしい」とのことだった。

とてもうれしい電話だった。

水のひとしずくひとしずくが、このように一つの流れになり、やがて大河となっていき、歴史を動かすと、その報告集でも書いたが、まさに、各地でひとしずくが生まれていることを実感する出来事である。

歴史を動かす大きなたたかい、私の報告集が少しでも役にたてればこんなうれしいことはない。

報告集の必要な方はメールください。

2007年10月22日月曜日

沖縄もそろそろ秋の気配

いつの間にか、沖縄も秋の気配が漂いはじめた。

より正確に言うと、先週頃からである。

北風が吹き、晩は少々肌寒くなり、毛布が必要になってきた。

そういえば、日が暮れるのも早くなった。

議会、教科書検定問題等々と追わ日々だったが、そういえばもう10月も下旬にさしかかっている。

沖縄ではしのぎやすい季節だが、ちょっと油断すると風邪をひいてしまうので気をつけないといけない。

季節の変わり目、健康に気をつけて、がんばりましょう。


2007年10月21日日曜日

戦後処理はまだ終わっていない。

今日、朝8時から住民約1500人を非難させての不発弾の現地処理が行なわれた。

米軍の航空機から投下された250キロ爆弾で、信管がついていて大変危険だという。

こういう、恐ろしいものすぐ近くに62年間も過ごしていたのだからぞっとする。

避難は8時から始まったが、現地本部で状況を見ていたが、かなりの交通混雑だったようだ。モノレールも不発弾での交通制限は初めてである。

避難が完了し、不発弾の処理にかかろうとしたときに、平良のバス停や儀保交差点に人がいるのが確認されたりで、作業はたびたび中断した。

こういう大規模な住民を避難させての作業がいかに困難かがよく分かる出来事である。

不発弾の処理は自衛隊の101不発弾処理隊によって行なわれた。

��時15分に不発弾の処理を開始。手動で信管抜き取りにかかっているようで、8分の1ずつ信管を回し、あるいは4分の1ずつ信管を慎重に回していく作業が無線で伝えられてくる。
緊張が走る。

��時間余をかけて、信管抜き取り、10時27分に無事終了。

250キロ爆弾の弾頭と弾底の信管2個が抜き取られた。

沖縄戦は、鉄の暴風と表現されているように、無数の砲弾、爆弾が打ち込まれた。今なおかず多くの不発弾が毎年発見される。残された不発弾の処理にはあと100年かかると言われている。

これだけでも異常なのに、その費用まで半分を那覇市がなどの自治体が負担させられているのはどう見ても納得できない。

沖縄の戦後はまだ終わっていない。

戦後処理として、国の責任で行なうべきである。改めてこのことを強く思いました。


 
    101処理隊から説明を受ける。右下が250キロ不発弾。     深さ6㍍の穴と処理後の不発弾


             運び出される不発弾         抜き取られた信管。少しの衝撃でも爆発するとのこと

2007年10月20日土曜日

明日、不発弾処理。戦後62年たっても、なお戦争のために避難。

私の住んでいる、首里儀保町の道路拡張工事現場で米軍の250キロ不発弾が発見さました。

明日、半径287メートル、約600世帯を避難させて現地処理を行なうとのことです。また、モノレール儀保駅もその避難半径内に位置するので、その時間は、交通ストップとなります。那覇空港かkら牧志駅の交互運転となるとのことです。

沖縄の不発弾は、毎年25トン処理してもあと100年かかるといわれています。

私は、今から5年前の2002年6月議会で、その問題を取り上げました。
市民の避難をともなう処理の場合、沖縄が700㍍、他の県などが300㍍の避難半径であることを独自調査で指摘、避難で市民に大きなな負担となっている実態を示し、処理方式の改善を要求しました。。
その結果、深さ6メートルの穴を掘り、周囲にライナプレートという鉄板を張り巡らせた新しい処理方式が採用され、避難半径が半分に縮小され、市民の負担は大幅に軽減されました。

しかし、不発弾の処理費用の半分は那覇市負担です。

私は、不発弾処理は戦争を起こした国の責任で行なうべき、全額国の負担で行なうべきと議会でも取り上げ、直接政府とも交渉してきましたが、未だに政府は、自治体に負担を押しつけています。

引き続き、国の責任で行なわせるようがんばります。

明日は、モノレールの運転制限などで大きな混乱も予想されます。現地対策本部に出向いて処理状況を確認していきたいと思っています。



儀保町の工事現場。



ライナプレートを張り巡らせた6メートルの穴。この中に不発弾を入れ、その中で信管を外す。



那覇市総合防災訓練を視察

今日、昼2時から那覇市総合防災訓練が行なわれた。

沖縄本島南西沖で地震が発生、那覇市で震度6弱、津波が発生という想定で行なわれた。

那覇市、消防本部、海上保安部、自衛隊、自治会連合会など36の機関・団体が参加た。

初期の火災消火、被災者救済、災害復旧などの訓練がだった。

日頃からの災害への備えと、地域の日頃の連携などが大事である。

さらに、議会人としては、もっと消防や防災の体制強化、資材、機材の整備が必要と感じた。


消火、救援訓練の模様


那覇市と赤十字が設置した、現地緊急救護所の模様

2007年10月19日金曜日

九州市議会議長会も検定意見撤回を決議

今日、市議会の安慶田議長と会談した。

あの要請から、九州市議会議長会の会議があって、帰ってきたのは今さっきだったとのこと。ごくろうさんなことです。

先日の東京要請行動の労をねぎらったが、九州市議会議長会でも決議を採択したとのことだった。

決議では、「筆舌に尽くし難い犠牲を強いられてきた沖縄県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない」として、「検定意見が速やかに撤回され、記述の回復が速やかに行なわれるよう強く要請する」となっているとのことである。

沖縄の島ぐるみのたたかいが全国へと大きく広がっている。勇気づけられる思いである。

議長とさらにがんばろうと握手。

2007年10月18日木曜日

バスガイドさんの話しに感動ひろがる

昨日のブログに、教科書検定意見の撤回を求める東京要請行動のさいに、同乗したバスガイドさんの話しを書いた。

このことがさわやかな感動を呼んでいるようだ。

メールや電話で感動したとの声が寄せられている。

うれしいことです。

「水の一しずく、一ずくが、やがて大河となるように、一人ひとりの心の響きあいが、やがて歴史を動かす」と昨日書いた。

今、一しずく、一しずくが各地で急速に生まれていると確信している。

ガイドさんの話しに感動したという同行記者から、当日の要請行動の写真が送られてきたので掲載します。



右から、申し入れる渡久地修、島袋大宜味村長、池宮城恩納村副村長、上原県議

2007年10月17日水曜日

バスガイドさんの発言に感動

私たち要請団の移動バスは1号車でした。

2日目、バスガイドさんは、玉城(たましろ)と自己紹介していました。

私が、すかさずあなた「ウチナーンチュ」(沖縄の人)ねと尋ねると、「はい、糸満の出身です」とのことでした。

よかったねと参加者はみんなその奇遇に喜びながらも、一体感をもって日程をこなしていきました。

帰路のつき、羽田空港が近づいたところで、このガイドさんが、突然最後の挨拶を行ないました。

「私は、今、東京でこのようにバスガイドをしていますが、将来は学校の社会課の先生になるために勉強しています。今日、みなさん方の、行動に一緒に参加できてほんとによかったと思っています。私が先生になったときに、この教科書がこのようになったのは、あのとき、みんながこのように頑張ったからなんだよ。戦争は絶対に起こしてはいけないんだよと教えていきたいと思っています。みなさん、ご苦労さんでした。がんばってくだい」

この挨拶は、私は、また思わず涙ぐんでしまい、「今度の行動で一番感動した」と声に出しましたが、みんなも「そうだ」と拍手を送っていました。

私たちの行動が、一人のバスガイドさんの心に響いたのです。

私は、水のひとしずく、ひとしずくがやがて大河となっていく。
このように一人ひとりの心の響きあいが、歴史を動かすのだと、玉城さんから、また一つ大きなことを学びました。
これだけでも大きな収穫だったと感動を覚えました。

玉城さん、ぜひがんばってたのもしい先生になってください。
ありがとう、同乗者一同、心から応援しています。

「島ぐるみのたたかい」が全国を励まし、大きなうねりに

「教科書検定意見の撤回を求める10・15総決起集会」が東京で開かれ、政府要請行動で上京していた私たちも参加しました。
主催は、「東京沖縄県人会」と「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」でした。

650人余が参加。

国会議員も、日本共産党からは、市田忠義書記局長、赤嶺政賢衆院議員ら8人が参加。
市田書記局長の挨拶は、悲惨な体験をした沖縄県民の願いを正面から取り上げ、今の文部科学省が検定意見を自作自演で行なったことを、赤嶺衆院議員の予算委員会での追及を元に詳しく報告。政治介入したのは文部科学省と政府であることを事実で示しました。

他にも、民主党、社民党、公明党、無所属の国会議員が参加し挨拶していました。

集会では、ひめゆり学徒の上江田千代さんが、沖縄戦の体験を報告。

その後、首都圏の地方議会でも教科書意見の撤回を求める決議をあげた運動の模様が報告されました。

沖縄出身の三鷹市議の大城みゆき市議の、議会での取り組みと、祖父、祖母の沖縄戦体験と「生きのびていなければ今日の私はここにいなかった」との発言には、思わず涙が出てしまいました。

この集会と今回の行動で、私が確信になっことは、沖縄の「島ぐるみのたたかい」が全国の心ある人々に、「主権者である国民が立ち上がれば、間違った政治を変えることができる」という、限りない勇気と確信を与えているということでした。

鎌倉の代表は、何をやっても駄目と思っていたが、沖縄のようにたたかえば変えられると勇気をもらい、がんばって議会に請願を出し、採択に結びついたことを語り、沖縄のみなさんありがとうと発言していました。

また、本土で暮らす沖縄出身者に「うちなーんちゅ」としての誇りと自信を与えているということでした。

いろんな場所で、このことを訴えられ、国会から引き上げるときに、バスに乗り込んできた県出身の方は、「ヤマトゥ、うちなんーちゅ。ありがとう、誇りを与えてくれた沖縄のみなさんありがとう」と大声で叫んでいきました。

私たちの思いを遙かに超えるようなうねりが今広がろうとしているのではないでしょうか。

東京集会を企画したみなさんありがとう。

沖縄の地でもっともっとがんばらないといけないと感じました。



挨拶する市田書記局長と壇上に並んで紹介された沖縄の議員たち。市田氏の後ろ中央が渡久地修



紹介された沖縄の要請団の参加者。右はしが渡久地修



2007年10月16日火曜日

教科書検定意見撤回を求める政府要請行動から今帰ってきました。

昨日から行なっていた、教科書検定意見の撤回と記述の回復を求める沖縄県民大会実行委員会の政府要請行動を終え、今帰ってきました。
��日間の強行スケジュールでしたが、全員が沖縄県民の願いを代表しているという、自覚と誇りをもってがんばってきました。

残念ながら、総理大臣、文科大臣などには会えませんでしたが、官房副長官、文科副大臣に代表が面会、さらに政党の党首への要請、すべての国会議員への要請、教科書会社への要請など、精力的に行動してきました。

沖縄から167人、東京で合流した人40人の200人余が参加。

官房副長官や文科副大臣などからは、直接「撤回する」との発言はなかったようですが、要請団は、さらに撤回までがんばるとの決意を固めあいました。

また、昨日の15日の晩には、東京での「教科書検定意見撤回を求める10.15総決起集会」に参加しました。

��50人余が参加し、沖縄に連帯した感動的な集会でした。

16日の要請後の記者会見では、今後、撤回と記述回復を求めてさらに運動を強めていくことが述べられました。

その後の、報告集会では、参加者から、今回の要請行動で得た教訓や、超党派の行動への感動的な教訓などがこもごも語られ、県民が一致して最後までがんばろうとの思いが一つになりました。

詳しくは、追って報告します。



官房副長官への要請は11人という制限でした。内容を報告する代表、那覇市長ら(15日、総理官邸前)


全員で要請代表団を送り、官邸前で約40分待機しました。



東京での集会。市田書記局長をはじめ、党国会議員が多数参加。その他、民主、社民、公明、無所属の国会議員も参加。
私たち、沖縄の議員も壇上に並びました。


要請行動の記者会見。

2007年10月15日月曜日

これから教科書検定意見撤回求め政府要請団の一員として出発

今日、これから教科書検定意見の撤回を求めて政府要請団の一員として上京します。

沖縄県民の島ぐるみの声を拒否し続けている政府、文部科学省に県民の怒りの声をぶつけてきます。

福田総理大臣、官房長官、文部科学大臣、各政党の党首、国会議員などへの要請でハードなスケジュールですが、全力でがんばってきます。

今日のブログが更新できるかどうか定かでありませんが、そのような事情ですので、ご理解を。

37年ぶりの高校の同期会

昨日、37年ぶりの浦添高校第4期生の同期会がありました。

��97人が在学していましたが、昨日は150人余が参加。大いに盛り上がりました。

��7年ぶりと合って、お互いに、「あなたは何組の誰だった?」との会話が飛び交います。

同じ職場で、最近までよく話しもしていたのに、同期生と分かってビックリというエピソードも。

最初に校歌斉唱からはじまりましたが、実行委員会では、「みんな忘れているはずよ~」と心配していましたが、いざ歌い出すと、自然と口から出てくるものですね。

なつかしいクラスメートとの話し、挨拶も気はそぞろ。まあ、37年ぶりなので無理ないのでしょう。

私も、実行委員の一人として、昨日は司会を担当しましたが、3年間を過ごした仲間達だけに、リラックスして進行でき、楽しい1日でした。




2007年10月14日日曜日

那覇祭り、那覇大綱挽き

先週の台風で延期になっていた那覇祭り・那覇大綱挽きが今日行なわれました。

残念なことに、今日は多くの学校の運動会や自治会の敬老会などとかち合っているとのことです。

国際通りでの道ジュネーも例年より少ない気がしましたが、それでも元気いっぱいの道ジュネーでした。

私は、母の七七忌がまだ明けていないために、参加を遠慮し、沿道からの声援にとどめました。

市長はじめ議員の方々、自治会長さんらから、一緒に行進をと進められましたが、理由を説明しご理解をいただきました。

那覇大綱挽きは、10.10空襲の日にちなんで、平和な那覇市、沖縄をとの願いから復活したものです。

これからも、平和と那覇市の発展のために力をあわせてがんばりましょう。

 
首里の旗頭「瑞雲」。出番を待っている状態の時です

かわいい砂団子

今日、小学校の校庭でのラジオ体操の時に、とてもかわいい砂団子を見つけた。

丁寧に並べられ、花や葉っぱが一つ一つに差し込まれている。

花がまだしおれていない所を見ると、昨日の作品と思われる。

かわいい子どもたちが、無心で一生懸命に団子を握っている姿がまぶたに浮かぶようである。

どんな子どもたちなのだろうか。女の子たちなのか、それとも男の子たちなのか。あれこれと想像すると楽しくなる。

この丁寧さからすると、たぶん女の子たちだろうと勝手にきめつけている。

近くの幼稚園児か、小学1、2年生ぐらいだろう。人数は、3、4人かもしれない。そばには、きっとポチという名の犬もいるかもしれない。

子どもたちが、のびのびと育ってほしいものであると思いながら、携帯電話の写真機能でパチリ。


2007年10月13日土曜日

やっと実をつけはじめたアセロラ

このホームページの記録を見ると、ちょうど2年前の10月13日の同じ日に、「アセロラ摘みに追われて」と題しての一文を載せている。

そこでは、アセロラが豊作だと言うことをくどくどと書いている。

ところが、去年はまったくといっていいほど実をつけなかった。
アセロラは、木をいじめないと実をつけないと聞いたことがあるが、去年は台風も来なくて、穏やかな年だったせいかもしれない。

今年も、なかなか実をつけなかった。
木をいじめるために、皮をはいだりとしてもうまくいかない。
そうこうしているうちに、7月12日から13日かけて、台風4号が沖縄をおそった。

我が家の隣の幹まわり7メートルもある巨木もなぎ倒され、隣家を直撃し、屋根に穴が開いた。
その時、このアセロラもいくつもの枝がへし折られた。

その後、花を一斉につけたが、なぜか実はつかなかった。
受粉がうまくいかなかったのか、定かではない。

その後、さらに台風が襲い、アセロラもそうとう痛めつけられた。

また、花が咲き、今度は実をつけたが、実が青いうちに、今度は鳥と、息子によるとネズミが木に登って実をかじっていたという。赤い実がなる前に全滅状態だった。

あきらめかけていたが、また花が咲き、今度はやっと実をつけはじめた。

鳥やネズミにやられる前にと脚立にのって摘み取った。

2年ぶりの収穫である。

2年前とは比較にならないほど少ないが、青い実が次から次へとついているので案外期待がもてるかもしれない。

ビタミンCをたっぷりとって、さあこれから街頭宣伝です。



2007年10月12日金曜日

2008年度予算要望書を那覇市長に提出

今日、日本共産党那覇市議団の「2008年度予算編成及び行政運営に関する要望書」を翁長那覇市長に提出しました。

市議団長の私が要望書について、参院選の結果は、これまでの政府の弱肉強食の構造改革路線に対する審判が下されたもの、国民いじめ政治から市民のくらし、福祉を守る地方自治体本来の役割を発揮してほしいと述べ、子どもの医療費を中学校まで無料化を拡大すること、高すぎる国保税を引き下げることなど、市民の切実な167項目の要望書を手渡しました。

翁長市長は、「毎年このような要望を出していただき感謝している。みなさんの要望への思いは、実現へのスピードについて若干の差はあるが思いは一致しているので、市政運営に反映していきたい」と述べました。
また、安保の問題にいても沖縄が犠牲にされてきた、教科書検定の問題にしても、これは沖縄の問題ではなく全国の問題だと述べました。

予算要望書につては、渡久地修のホームページに全文を掲載していますので、それをご覧ください。



手前が翁長那覇市長、右側手前が渡久地修


市の排水路に安全策とワイヤーメッシュを設置

松城中近くの繁多川の私道に、先日、ガードレールの設置が終わりましたが、その際、地域の方から、その下を流れる市の排水路にふたがないために、「雨の時に子どもたちが流されないかいつもヒヤヒヤしている」との相談が寄せられました。

さっそく市と交渉。

その結果、本日、排水路入り口に立ち入りを防ぐ安全柵が設置され、また、排水路はワイヤーメッシュ(網)が張られました。

これで安心できると喜ばれています。


工事をする職員



1234回目の核兵器廃絶求める昼休みデモ

核兵器廃絶をめざす昼休みデモが今日で、1234回目を迎えました。

10月だというのに強い日差しが顔を刺します。

吹き出す汗をぬぐいながら、「核兵器を廃絶せよ」「教科書検定意見を撤回せよ」「歴史の歪曲を許すな」と唱和、県庁を一周しました。


2007年10月11日木曜日

松城中近くの危険だった私道にガードレールが実現

那覇市繁多川の松城中学校近くに、ガードレールもなく自転車などが転落したこともある危険な私道がありましたが、地域の婦人から相談があり、1月26日に市や地主さんらと交渉していました。

その結果、市の私道整備補助金制度を活用して整備することになりましたが、このほど、工事がおわりました。

頑丈なガードレールができて安心して通行できると喜ばれています。


完成したガードレールの前で、我如古市議、地域のみなさんと。

上間1丁目の市道の側溝の改修へ

先日、地域のおばあちゃんから、車が通るたびにがたがた大きな音がして眠れないとの苦情が寄せられました。

調べてみると、那覇市道の横断グーレーチングが破損して、車が通るために大きな音がでます。

昨日の10日、すぐに市の担当者にきてもらいましたが、市の担当も「これは大変」とすぐに応急措置を執りましたが、抜本的には改修工事が必要とのことでした。

市としても、このままでは事故につながる危険もあるとして、直ちに工事を行なうことを約束しました。


応急措置を行なう市の職員ら。一番左は渡久地修

パソコンの障害でブログの更新ができませんでした。

インターネットに突然つながらなくなり、昨日は更新が出来ませんでした。

原因は、ウインドウズのアップデートによって、何らかの障害が出たようです。

問い合わせをして何とかつながるようになりましたが、原因はまだ不明です。

今日一日中、システムの回復に費やされています。

2007年10月9日火曜日

15・16日に、教科書検定意見撤回で政府要請行動へ

教科書検定問題で、政府が沖縄県民の「検定意見撤回」を拒否している問題で、15日と16日の両日に200名規模の県民代表団を送ることが今日の実行委員会で決まったと報道されている。

私もその一員として参加する予定である。

11万余が集まった県民大会は、沖縄県民に大きな誇りと確信を与えている。

今、いろんな所でその話題になる。

当日は、バスが満杯で行こうにも行けなくて悔しがっている人、何とか宜野湾市に着いたが、もう終了間際だったとか、すでに終了していたという人がたくさんいる。

これほど多くの県民が参加したことである。

参加者は11万人、参加しよとしてたどり着けなかった人を含めるとすごい数になる。

さらに、参加できなくても思いは一緒という人は130万人近くになる。

私たちが求めているのは、政府・文部科学省の政治介入によってゆがめられた教科書を、「歴史の真実のとおり、ありのままに事実を書いてほしい」、「元の事実の記述にもどしてほしい」と言っているだけである。

政治介入したのはあくまでも政府・文部科学省の方である。

これを政治介入といって、また、また、事実をねじ曲げてはいけない。

それこそ、二重三重のねじ曲げである。

沖縄県民は侮られている。しかし、私たちは、それを許さないであろう。

政府はやがてそのことを知ることになるであろう。

2007年10月8日月曜日

那覇市上間の「ミートゥンダシーサー」

今日、共産党真和志中支部支部の比嘉さん、金城さんと、支持者への挨拶回りを行ないました。

その途中で見つけたのが、このミートゥンダ(夫婦)シーサーでした。


那覇市上間1丁目の南部を見下ろす高台で見つけました。

碑文には、上間の守り神と記されていました。

ほのぼのとした石彫りのシーサーです。


高齢者のグループホーム「にじハウス」を表敬訪問

今日、国場の「にじハウス」というグループホームを嘉数進さんとともに表敬訪問しました。

お知り合いの座波さんをはじめ8人のお年寄りのグループホームです。

今、介護保険の改悪や後期高齢者医療制度などお年寄りいじめの政策が国によってどんどん進められています。

そういう中にあって、少しでもお年寄りの皆さんの生き甲斐と医療・福祉を充実させようとの努力もいろんな所で行なわれています。

にじハウスもその一つで、8人のお年寄りががんばっていました。

あの戦争を生き抜き、戦後の米軍占領のなかでたたかいぬき現在の沖縄をj築いてきたお年寄りの皆さんは、沖縄の宝です。

介護保険料の引き下げ、お年寄りいじめの後期高齢者医療の凍結・中止、見直しが必要です。

��人のみんさんに、ますます元気で頑張ってほしいと握手して、グループホームをあとにしました。


2007年10月7日日曜日

「ホームページ見てますよ」にビックリ

今日、当真嗣州前市議と支持者訪問を行なっていたところ、畑仕事をしている金城さんと出会いました。

挨拶をしたところ、教科書検定意見の撤回を求めた那覇市議会での出来事などを知っておられたのでビックリ。

なおびくりしたのがインターネットで私のホームーページをよく見ているとのことでした。

当真嗣州さんが、「お宅、コンピュターも使えるのですか」と感心することしきりでした。

思わずうれしくなり握手にも力が入ります。

一人でもこのブログを見る人がいて、私たちの活動に共感してくれる人が一人でも多くなれば幸いです。

毎日更新も結構大変ですが、がんばります。

金城さんありがとうございます。

じーぶ(儀保)のあらぐすくそば

そば好きの人はぜひ一度食べてみてほしいそばがある。

首里の儀保十字路から桃原へ向かって右側3件目の「じーぶ」というそば屋さん(夜は居酒屋)のそばである。

そば通なら、すぐに以前に近くにあった「さくら屋」のそばを思い起こすに違いない。

麺が固麺である。

「さくら屋」から伝授されたのですかと聞いたら、新城さんという方が長年、そばを食べ歩き研究してつくりあげた麺だそうだ。

そばの名も「あらぐすくそば」と命名されている。固い麺の好きな方にはたまらないかもしれない。

さて、このそばにはもう一つの特徴がある。

それは、障がいのある方々の「就労支援、あ・ん」という事業所で麺を製造していることである。

このじーぶというお店は、その協力事業所として、そばを出しているのである。

おいしいそばを食べて、就労支援になるからなおおいしくなる。

一度ぜひ食べてみてください。

しかし、1日限定20食とのことです。


お問い合わせは、「就労支援あ・ん」、098-885-7274

2007年10月6日土曜日

「借金は解決できる」・・・クレジット・サラ金被害をなくす沖縄交流集会

第7回、クレジット・サラ金被害をなくす沖縄交流集会に参加してきました。

去年、長年の運動が実ってグレーゾーン金利撤廃の法改正が行なわれたあとの最初の交流会になりました。

主催者は、これまでの集会の延長線上ではなく、これからの運動の新たな出発点となる交流集会になると強調していました。

「体重債務と貧困」と題して、花城梨枝子琉大教授の講演では、沖縄がサラ金に一番苦しめられている県であること、クレ・サラ被害をなくす会だけでも、この12年間で2141人・20億4407万円の被害相談で、「払わなくてもいい借金で苦しめられている」実態が浮き彫りになりました。

借金を解決した体験者などの発言や分科会などからも、いかに深刻な事態であるかが明らかになり、これは、個人の責任ではなく、政治の責任、国の責任であることが浮き彫りになりました。

そして、借金問題は必ず解決できる、一人で悩まず相談してほしい。そして、自殺などは絶対にしないでと呼びかけていました。

サラ金などの多重債務に苦しんでいる方がいたら、ぜひ、このことを伝えてください。

そして、お近くのサラ金被害をなくす会や、民主商工会、または、日本共産党議員にお気軽に相談するようにお伝えください。

また、今日は浦添市や沖縄市、那覇市などの行政の職員も多数参加していました。今、各市町村でもこの相談窓口の開設が進んでいますので、行政にも相談してみてください。

沖縄のクレジット・サラ金被害をなくす会の連絡先は、098ー836ー4851

講演内容の冊子もそこにお申し込みください。


花城教授の講演


分科会の様子

真地団地の畳床の取り替え要求で調査

先週、真地団地の住民から、「畳床が痛んで取り替えてほしいとの要望を出しているが、なかなか聞いてもらえないので何とかしてほしい」との要望が寄せられました。

この市営団地の畳の取り替え問題は、私も3年目に議会で取り上げ、市の部長も「畳床が劣化しているものは市として取りかえる」との答弁をもらっていただけに、すぐに調査しますと返事しておきました。

昨日、議会の決算委員会審査を終えての3時から、我如古市議と、市の担当とともに要望のあった4世帯を見て回りました。

築28年程度たっているとのことで、畳床が一度も取り替えていない所は、かなりデコボコしていました。

ほとんどの部屋がこんな状況とのことで、計画的な取り替えが求められています。

この調査を元に、市としては、要望のあった4世を畳屋さんに再度調査してもらい、必要な所は取り替えることになりました。

ただ、市としては、表替えの分は自己負担になるとのことでした。

生活が苦しい中で表替えの分の支出は大変な世帯もあり、これをどうするかが今後の問題として残されました。

一歩前進ですが、さらに要求実現のために奮闘しなければならないと思っています。


2007年10月5日金曜日

ブログアクセス1万件を突破

本日、このブログへのアクセスが1万件を突破しました。

��月7日に開始してから4ヶ月弱ですが、何とかほぼ毎日更新に努力してきました。

��日の最高アクセス件数は176だったと思います。

まだ1日200件には達していませんが、これからも様々な情報を発信していきたいと思います。

これからもよろしくお願いします。


2007年10月4日木曜日

那覇大綱挽が1週間延期に! 残念

恒例の那覇大綱挽が台風15号の接近のため1週間延期になりました。

��4日の日曜日になりました。

この大綱挽は、1944年の10月10日のいわゆる10・10空襲の日にちなんで、平和な那覇市を願って開催されたのが始まりでした。

台風で延期になるのは初めてではないでしょうか。残念です。

今、教科書検定問題が起きているだけに、単なる那覇市の最大のお祭りというだけでなく、その大綱挽の由来などもこの機会に多くの人に知ってもらいたいものです。


去年の那覇大綱挽

2007年10月3日水曜日

沖縄県民大会。東京に直したら100万人が参加したことに。

今日、県民大会の実行委員会の代表が急遽上京し、文科大臣に検定意見の撤回を求めた。

報道によると文科大臣は、検定意見の撤回を拒否したとのことである。

そして、教科書会社の訂正申請で記述の修正を図ろうとしているらしい。

まさに、姑息な手段であり、政府の検定意見をつけた責任は棚上げにして、すべてを教科書会社の責任にしようとしているようである。

報道によると、県知事などは政府の態度を評価しているようだが、それでは問題は解決しない。

検定意見をそのまま存続させたままの修正などということは、検定意見を容認したことになってしまう。

県民大会が求めているのはあくまでも、検定意見の撤回による記述の復活である。

県知事をはじめ、実行委員会の代表はこの立場を明確にすべきであり、絶対に妥協してはならない。
撤回以外の妥協の道はない。政府の姑息な手段に翻弄されないように、沖縄戦での県民4人に一人が犠牲になった歴史の重みを私たちはしっかりと認識して、最後まで団結して頑張る必要がある。

政府は、沖縄県民の怒りを過小評価してはいけない。たんなる駆け引きなどでことを納められると思ったら間違いではないだろうか。

県民10人に一人が参加した県民大会。東京に直したら100万人の大集会である。このことを知るべきである。

民意に逆らう政府は、早晩、国民から見放されることを参院選挙では示されたと思うが、もう忘れたのだろうか。

2007年10月2日火曜日

「那覇市決議で火」・・・日経新聞が教科書検定問題で報道

29日の11万人の県民大会が政府を突き動かしつつある。

そんな中、9月30日の日本経済新聞に興味深い記事が掲載された。

那覇市議会でこの問題に取り組んできたものの一人として感慨深いものがあったので、その記事の前半部分を紹介したいと思う。
以下が記事。

抗議、「島ぐるみ」に
那覇市決議で火
行政・教育トップ動く

文部科学省が検定結果を公表したのが半年前の3月30日。しばらくは、沖縄県内でも感心は低く4月22日の参院補選でも争点にならなかった。仲井真弘多知事は4月の段階では、日本軍の関与の有無について「断定することは難しい」と文科省と同様の見解を述べ、それが県内で問題視されることもなかった。

 空気が変わりはじめたのは那覇市議会が検定意見の撤回を求める決議をした5月中旬以降。地元の2紙が抗議の記事を連日掲載する中で、全41市町村議会が撤回要求の意見書を次々と可決し、県議会も同調した。(以下略)


 那覇市議会は、いち早く撤回を求める意見書を可決し、また、6月議会開会中は、検定前の本と検定後の本の展示会を議会として開催し、世論喚起に努めてきた。

 ちなみにこの記事のコピーを届けてくれたのは自民党会派の幹部である。
 
 教科書検定が新聞で報道されてすぐその日に、臨時議会の開催と抗議と撤回要求の意見書をと動いたものの一人として、「お互いにがんばったかいがあったな」「県都の議会として、大きなきっかけの役割を果たすことが出来たな」と労をねぎらいあった。

 最初の意見書採択だっただけに、いろいろな苦労があったが、県民の立場で一致に向けてがんばった。那覇市民の良識と世論の後押しが全会一致へと結びついたと思う。
久高将光議長(当時・8月に交代)はじめ各会派の議員のみなさん、及び関係者と那覇市民に敬意を表するものである。
 
 私たちは、党派を超えて、撤回までがんばろうと誓い合った。

 県民大会は、様々な関係者のなみなみならない努力と一人一人の県民の思いが実ったものであり、特に、「集団自決」の生き残りの方々が重たい口を開き新たな証言を始めたことなどが大きな成功の要因であろうと思う。

 那覇市議会の一員として、今回の県民の大きなたたかいの一助になれて光栄に思う。

 沖縄県民は、これからも一致団結してがんばって行きたいものである。



2007年10月1日月曜日

明日から決算委員会

明日から決算委員会がはじまります。

長丁場になりますが、気合いを入れてがんばります。

11万人の叫びが政府を動かし始めた

沖縄県民の血の叫び、大地の叫びが政府を動かしつつある。

29日の11万人の最大規模の県民大会が衝撃となって政府を揺り動かしてきていることが、テレビで報道され始めた。

今日、テレビの各局が県民大会の模様などを特集で紹介している。

そして、総理大臣や文部科学大臣などもコメントするようになった。

しかし、いろんなコメントを聞いても本土と沖縄の温度差を感じる。

沖縄県民は、この問題は、歴史の真実を歪曲してはならない、歴史を正しく継承しようという当たり前のことを主張しているのであり、全国の子どもたちが学ぶ教科書の問題であり、全国民的な問題だと認識して立ち上がっている。

しかし、テレビなどのコメンテーターなどの話しの端々には、沖縄県民が怒るのは理解できるなど、自分達の問題ではなくて、あくまでも沖縄という特殊的な地域問題と思っている節が見え隠れする人もいる。

それでは、ことの本質を見誤ってしまうと思う。

これは、沖縄だけの問題ではない。全国民の問題である。このことを私たちはもっと訴えていかなければならないと思う。

さらに、あと10年後、20年後に再びこのような歴史の歪曲が起きないように、どうすればいいのか。そのことも考えなければならない。

あの戦争を明確に反省し、周辺国に謝罪し、再び侵略戦争を起こさないと誓い、周辺国の信頼を勝ち取っているドイツのことももっと学ぶ必要がある。

いずれにしても、まず、教科書検定意見の撤回を勝ち取ることから始めなければならないと思う。