2013年1月31日木曜日

がんばれ中小企業、「下町ロケット」という本は面白い

 「下町ロケット」という池井戸潤の本はお薦めです。

 次の展開がどうなるのか、小気味良いテンポで進み、一気に読ませる本です。

 下町の中堅企業が、銀行や大企業などのいろんないじめ、攻撃にあいながらも生き抜いて行く姿を描いています。

 銀行、大企業などがこんな手を使って中小企業をつぶし、あるいは傘下に収めていくのかなどの裏の現実の一部を知る上でも参考になります。

 著者は、元銀行員で、これまでも銀行の内幕などを題材にしたジャンルの小説を書いています。

 下請けいじめ、派遣ぎり、リストラなど、今の日本社会で大企業の横暴がまかりとおている中で、実際に、小説の中に出てくるような中小企業が抗うことができるかどうか、この会社が実在の会社をモデルにしたものなのかどうかはわかりませんが、中小企業にがんばってほしいとの願いがいっぱい詰まっていて読む者の心をつかみます。

 この本の主人公の下町の社長と社員たちの町工場の誇りをかけたたたかいに、本の中の場面に入り込拍手・喝采を送りたいという気持ちにかられます。




 
 

2013年1月30日水曜日

「相棒との別れ」を記者席が紹介

 1月15日のブログに、「18年支えてくれた相棒」との別れについてのエッセイを書いた。そのことが記者の目にとまったのか、昨日の琉球新報「記者席」で紹介されているの掲載します。
 15日の記事はこちらをクリック




1月29日 琉球新報

2013年1月29日火曜日

オスプレイ配備撤回・安倍総理直訴行動を終えて

 「オスプレイ配備の撤回を求める安倍総理直訴・東京行動」は、昨年9月9日の10万人の県民大会に続き、沖縄の歴史を拓くものになった。県内41すべての市町村長と議会議長、県議会議員、実行委員ら140名余が上京し行動を起こした。それだけ沖縄の米軍基地の重圧が耐えがたいもの、県民の怒りの限界点を超えるところに来ていることの証である。「平成の沖縄一揆」である。

 27日には、日比谷で本土と沖縄が連帯した4000人を超える東京集会が開催されパレードも行った。28日には安倍総理に建白書を提出した。健白書は、1、オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されようとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸郵送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。2、米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念することを求めている。長年のたたかいの中で沖縄県民が一つにまとまった最低限の願いである。

 安倍総理大臣や対応した関係大臣らは、「沖縄の思いを重く受け止める」などと神妙な面持ちで対応していたが、その日の所信表明演説などでも、普天間基地の辺野古移設を進める意向を示すなど、県民の願いを一顧だにしない姿勢に終始している。

 「沖縄は目覚めた。米軍基地は沖縄経済発展の大きな阻害要因でしかない。基地をなくした方が沖縄は発展する。もう後には戻れない。政府の壁は厚いが県民はこれからも一丸となってたたかっていこう」との共同代表らの決意を全参加者で確認した。



安倍総理大臣に建白書を提出。
左から翁長共同代表、渡久地修、稲嶺名護市長
1月28日、総理官邸


東京集会会場で、日本共産党県議団5人と赤嶺政賢衆院議員。1月27日


東京集会。日比谷野外音楽堂。1月27日


銀座までパレード、1月27日



安保破棄中央実行委員会などの院内集会であいさつ。1月28日

2013年1月27日日曜日

オスプレイ撤去の東京行動に出発

これから、東京に出発します。

オスプレイ撤去の直訴行動に41市町村長、議会議長、県議、実行委員会の総勢150人が参加します。

今日の、ごご3時から日比谷野外音楽堂で東京集会があります。

ぜひご参加ください。

一昨日までの2日間は、北九州市議選挙の応援にいって来ました。

雪降る中で、日本共産党の勝利をと訴えてきました。

北九州市議選挙への支援もお願いします。




北九州市議選挙で雪の中訴えました。

2013年1月23日水曜日

オスプレイ配備撤回を求める那覇市民大会に1300人

昨日、那覇市民会館で「オスプレイの配備に反対する沖縄県民大会」那覇市実行委員会主催の那覇市民大会が開催されました。

1300人の市民が会場を埋めました。

県民が猛反対したにも関わらず、配備を強行し、さらに7月までに普天間基地にあと12機を配備するとしていることや、嘉手納基地へのオスプレイの配備などを絶対に許せないとの決意を固めあいました。

那覇市長は、基地は沖縄経済の阻害要因であるとのべ、基地をなくしたほうが沖縄経済と沖縄が発展していくことを強調し、那覇軍港も浦添移設ときりはなして早期返還求めていくとしました。

27日、28日の全市町村長、議長、県議会議員、県民大会実行委員会の東京行動を大きく成功させようと決意を固めあいました。

これで、9月9日の沖縄県民大会を前後しての市町村大会は、41市町村中、25市町村で大会が開催されたことになります。

引き続き、オスプレイの撤去、普天間基地の撤去、県内施設断念に向けて一致団結してがんばりましょう。


2013年1月22日火曜日

耐久性琉球漆器での学校給食会

 琉球漆器は、復帰直後の1975年には13事業所、従業員数317人だったのが、2011年には5事業所、43人、生産額も1990年で6億6700万円だったのが、2011年には1億140万円と激減している。琉球王朝時代からの世界に誇る伝統工芸品を守り育成していくことは重要な課題である。

 琉球漆器を学校給食用食器として導入をと市議時代から取り組み、県議会でも何度も提案してきていた。
市議時代に、与儀と開南小学校に試験導入されたが、食洗機にも耐えられる琉球漆器の開発が待たれていた。
このほど、県の伝統工芸技術支援センターによって、食洗機や熱風消毒機にも耐えられる給食用食器が開発され、大名小学校で導入された。その食器を使った給食会に参加させてもらった。

 周囲が漆黒で内側が紅色の食器は、木地も県産材を使用している。リュウキュウマツ、センダン、ソウシジュ、クスノキの4樹種だが、同センターでは他にもホルト、ハンノキ、イタジイなども制作している。


 県内の学校やホテル、旅館などで使用されるだけでも、県林業と琉球漆器産業の育成、雇用の増大、沖縄の伝統教育と期待は膨らむばかりである。

 給食会では、子どもたちの「上等なお椀でたべていつもよりおいしい」とうれしいそうだ。食べ残しも少ないという。「このお椀は、毎年いくつ作っているのですか」との質問があったが、早く、「一年で、○千個作っていますよ」と言えるようにしたいものである。



大名小学校での給食会


麦ごはん、イナムドゥチ、チンゲンサイ炒め、ウムクジ天ぷら。食器は琉球漆器



4樹種の、飯椀、汁椀、大皿、小皿

2013年1月21日月曜日

27日、28日に「安倍総理直訴・東京行動」

「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」の実行委員会が今日開かれ、「安倍総理直訴・東京行動」について確認した。1月27日に上京、午後3時から日比谷野外音楽堂で5000人規模の集会を開催しその後銀座までデモ行進・パレードを行い、翌28日には、安倍総理への「建白書」を提出することにしている。総理面談は、エントランスホールでも沖縄からの代表団が全員参加できるように現在申し入れている最中である。

 「建白書」では、1、オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸郵送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。2、米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。を求めている。

 この「建白書」は、5人の共同代表、41の市町村長と市町村議会議長、県議会議長、県議会各派代表者が署名、押印したものとなっている。東京行動には41のすべての市町村から首長と議長(一部代理)と県議、実行委員など総勢150人近くが勢ぞろいする文字通り沖縄県民の総意を体現した歴史的な大行動になるだろう。

 この日は雪が降るとの予報も出されているなど、季節も政治も寒い風が吹いているが、それを吹き飛ばす沖縄県民のゆるぎない思いを日米両政府に届ける決意である。東京近郊のみなさんが集会へ参加して思いを共有してもらいたいものである。





1月21日、県民大会実行委員会。右端が渡久地修

2013年1月20日日曜日

今日も、伊礼ゆうきさんの応援に

今日も、浦添市議選挙の伊礼ゆうきさんの応援に行ってきました。

今日は、予定候補の伊礼ゆうきさんと街頭から訴えてきました。

30歳の若い女性予定候補で、訴えも新鮮で、看護師としての実体験の話しなどを通しての政治を変えたいとの訴えは市民の心に響くことでしょう。

多くの声援がありました。

がんばりましょう。



2013年1月19日土曜日

浦添市議選挙、伊礼ゆうきさんの応援

2月10日投票の浦添市議選挙に、比嘉愛子さんの後継として立候補を予定している、伊礼ゆうきさんの応援に行ってきました。

30歳の若い女性予定候補です。

6個所で訴えを行って来ました。

今日は、昨日までと違って晴れわたった空が広がっていました。

オスプレイ撤去、浦添からも沖縄からも基地をなくせとの願いを日本共産党の伊礼ゆうきさんへ。

憲法守れの願いを日本共産党の伊礼ゆうきさんへ。

子供の通院医療費も中学校まで無料に、窓口無料化をもとの願いを日本共産党の伊礼ゆうきさんへ。

国保税、介護保険料引き下げ、低所得者向けの公営住宅の建設をとの願いを日本共産党の伊礼ゆうきさんへ。

と訴えてきました。

車から手を振る方々や、がんばってくださいと握手を求める人もいました。

勝利めざしてがんばりましょう。


2013年1月18日金曜日

「沖縄を返せ」の高校生の書

 基地押しつけのために小野寺防衛大臣が沖縄県庁に来た1月16日、くしくも県庁ロビーでは、「復帰40周年・沖縄県高等学校総合文化祭」の展示が行われていた。玄関を入ると、2階から吊り下げられている縦3メートル、横5メートルの大きな書道の作品が目に飛び込んできた。そこには、「沖縄を返せ」との大きな横文字の題字と、縦に歌詞が書かれていた。

 沖縄が日本に復帰した1972年5月15日から40年がたつ。もちろん、この作品を書いた高校生たちは生まれていない。戦後27年間の米軍の占領支配、植民地状態だったことも、県民の祖国復帰をめざした島ぐるみのたたかいも体験していない。いまや、戦後生まれが私を含め県人口の80%を超えている。

 県教育委員会に聞いたところ、復帰40周年記念ということで、復帰について勉強を重ねてきた高校生たちが選んだ題材だという。いまだに変わらない沖縄の現実。全国の基地の74%が集中し、オスプレイの強行配備、辺野古新基地建設などますます強化される沖縄の米軍基地。高校生たちは現実をどう見つめこの作品を書いたのだろうか。

 「固き土を破りて 民族の怒りに燃ゆる島沖縄よ 我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた沖縄よ 我らは叫ぶ沖縄よ 我らのものだ沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ」
 若い世代もちゃんと見ているのだ。新鮮な気持ちと勇気をもらった気がしてカメラを向けた。いつのまにかその歌を口ずさんでいた.


23年度・監査結果を報告

今日、23年度の定期監査、財政援助団体等監査、行政監査の結果報告について、上原良幸副知事に提出しました。

定期監査について、5項目、財政援助団体監査については、3項目、行政監査結果については、3項目の改善点を指摘し意見を述べています。

知念代表委員から報告したのち、私は特に、指定管理者が管理を行っている施設で、海岸に誓いにも関わらず、津波などが予想される場合の避難経路の表示がなかったり、避難訓練などが行われていないところが見受けられるので、万全の対応を行うことが必要ではないか。財政援助団体の基金運用について、運用益を活用するといって、外国債を買っているが、運用益が少なくなっている実態、万が一の事態にどう対応するのか、リスクを回避する対策をどうするのかが重要な課題になっているので、十分なる対応を求めました。

副知事も、これらの意見はもっともなことで対策の強化を行いたいとのべていました。





意見を述べる渡久地修監査委員


2013年1月17日木曜日

18年目の1月17日

阪神淡路大震災から18年目の1月17日を迎えた。

あの日、共産党の事務所でテレビを見ていた信じられない光景に、目を疑い絶句していた。

ヘリコプターから実況中継しいていたナウンサーが、これが首都東京で起きたらどうなるんでしょうかと平気で言っていたが、「今、目の前で多くの神戸の市民が下敷きになっているのに、何を言うか、ふざけるな~」と大声で叫んだのを今でも鮮明に覚えている。

3年前に、神戸の6個所ほどで、沖縄の基地問題について講演する機会があった。それから神戸には友人もできて、いまでも交流が続いている。

安部内閣は軍事力を強化する方向に舵を大きく切ろうとしているが、いま、日本が備えなければならのは、外国からの攻撃なのだろうか。

いや、今、日本が本当に備えなければならないのは、必ず襲ってくるであろう、大規模地震、台風などの災害に対する備えではないだろうか。

いたずらに、中国などの脅威をあおり、軍事的な緊張を作り出し、軍事的な強化を目指して行くことを一番喜んでいるのは、軍需産業を中心とした産軍複合体ではないだろうか。無数の莫大な武器を販売する軍需産業にとっては、軍事的な緊張が必要なのだと、多くの識者が指摘している。

日本は、軍事大国をめざすのではなく、地震、台風などに備えた防災先進国をめざすべきである。

そのことが、阪神淡路大震災、東日本大震災で亡くなった方々への本当の意味での供養になるのではないだろうか。

2013年1月16日水曜日

防衛大臣の来県に抗議

自公政権の小野寺 五典防衛大臣が沖縄に来県。

病気治療中の知事に代わり副知事との面談を行った。

防衛大臣は、政府の普天間基地の辺野古移設の方針は変わらず、それを沖縄県民に理解してほしいと説明のために来るのだという。

つまり、沖縄への基地の押し付けに来るのである。

報道では、2月に訪米予定の安倍首相は、オバマ大統領との会談の手土産に、辺野古の海の埋め立て申請をその前に県に提出するとの意向だという。

オバマ大統領のご機嫌伺いのために、沖縄を人身御供として差し出そうというのである。

この従属的な政府の態度は恥ずかしい限りである。

こんな国は世界中にないのではないか。

主権国家としての意思のかけらも感じられない。

自民党は、先の衆院選で、「普天間基地は県外移設」を公約に掲げたのである。

それを裏切ることは許されない。

県連と本部とのねじれといって済まされてはならない。

あの公約は自民党としての公約であることを自公政権は肝に銘じるべきである。

それを裏切れば、民主党が県民の大きな反撃にあったように、今度は自民党が同じ目に合うことを肝に銘じるべきである。

今日、県庁前は、小野寺大臣来県に反対する県民の緊急抗議行動が展開された。

沖縄県民のたたかいはますます根強く広がっていくだろう。




県庁前で


2013年1月15日火曜日

18年支えてくれた相棒との別れ

文字通り私の足となってともに走ってきた相棒に別れを告げるときが来た。1995年の7月11日から使用してきた50CCのバイクが成人式の帰りに交差点でエンジンが動かなくなった。18年6カ月間も私に尽くしてくれた。この間、何度も廃車の危機に直面しながらも、修理を重ねてきた。車体は錆つき、マフラーは針金で括りつけいるなど、よくこんなバイクに乗っていますねと言われながらも手放す気になれなかった。

▶18年前といえば、私は共産党南部地区委員会の機関紙部長を務めていた。赤旗を増やす活動から、配達、集金などこのバイクにお世話になった。1997年に市議会議員に当選してからも、このバイクが地域周りの武器になった。台風や大雨の時も合羽をかぶって走り回ったものだ。私にとって議員活動と党活動にはバイクは欠かせないものの一つである。県議になった今でもそれは変わらない。

▶故障する2日前に、バイク屋さんを訪ねて、そろそろ新しいバイクに交換しようかとパンフレットをもらってきたが、それでも、悩みなかなか結論を出せずに逡巡しているところだった。18年も付き合っているとバイクにも私の気持ちが伝わるのだろうか。エンジン停止とバイク自らが結論を出したのだ。長い間ありがとう。複雑な思いでバイクに別れを告げた。

▶基地のない沖縄へこれから正念場を迎える。2代目の相棒にまたがりこれからも頑張っていく決意である。新たな18年に向かって。

2013年1月14日月曜日

浦添市議選挙に支援を

今日は、浦添市議選のイレイゆうきさんの応援に行って来ました。

風がものすごく強くて往生しましたが、がんばって街頭から訴えてきました。

30歳の若い女性の予定候補で、さわやかで行動力のある看護師さんです。

浦添市議選挙は、2月10日の投票です。

日本共産党からは、現職のにしめ健君と、新人のイレイゆうきさんの2人が立候補の予定です。

ご支援をお願いいたします。

2013年1月11日金曜日

沖縄防衛局に抗議の申し入れ

赤嶺政賢衆院議員と県議団で嘉手納基地へのオスプレイ配備についての抗議してきました。

防衛局長は、相変わらずアメリカからは聞いていないと、いつものように県民を欺く姿勢でした。

アメリカ追随の精神は治らないのでしょうか。

日本としての独立国の政府としての意思もまったく感じられない、従属者の態度でした。

普天間基地の辺野古移設への埋め立て申請についても、時期については分からないと言っていましたが、申請するのか、しないのかとの私の問いにもはっきりとした答えはありませんでした。

埋立申請が出されたら、沖縄県民は絶対黙っていないということを肝に銘じるようにと指摘してきました。

2013年1月10日木曜日

今年もがんばろう

今年もがんばります。



県議会棟前で。

憲法改悪を許さないたたかいを

 国内外から、極右内閣の誕生を危惧する声が上がっている。

 安部内閣の憲法改悪を許さない広範な国民のたたかいが今求められている。

 今から6年半前の平成18年6月27日に、那覇市議会で国民保護法の関連条例が出された。

 その時、この危険な中身と、憲法改悪を許さない県民のたたかいが重要だと、条例への反対討論を行った。

 この討論は、今の憲法改悪の策動を許さない運動にも参加になるだろうと今朝ふと思いつき、インターネットで議会議事録を検索して見つけた。

 参考になると思い、以下、掲載します。

 読んでいただければありがたいです。

平成18年6月27日 
那覇市国民保護条例に関する議案に反対する
日本共産党渡久地修市議(当時)の反対討論


◆渡久地修 議員 

 議場の皆さん、おはようございます。
 私は、戦後世代です。去年の6月、私たちの大先輩の当真嗣州さんが32年間議員を務めて、ちょうど6月のこの定例会で勇退いたしましたが、そのときに自分の政治的な原点、戦争を絶対繰り返してはならないということを去年、ここで一生懸命述べて、勇退していきました。
 きょう、この討論に際しまして、事務局に調べてもらいましたら、44人の議員中、8人の方が戦争体験者です。そして、私を含めて36人の方が戦後生まれです。そして、そのうち3人の方が復帰後世代です。そういう意味で私たちは沖縄戦の悲惨な実体験を風化させないために、努力していくことが求められていると思います。

 私は、日本共産党を代表して、議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、に反対の立場から討論を行います。

 あの忌まわしい沖縄戦が終わって61回目の6月23日、「慰霊の日」が今年もやってきて、そして過ぎていきました。住民を巻き込んだ地上戦が戦われ、20数万人の貴い命が奪われ、県民の4人に1人が亡くなりました。住民保護の名の下に、軍隊の作戦行動の邪魔にならないようにと、住民は、強制的に南部や北部に避難させられ、学童疎開で本土、台湾へと避難させられていきました。
 住民を守るはずだった軍隊によって、避難壕から住民は追い出され、また、住民はスパイ扱いされ、あるいは集団自決の強要など、数々の悲劇的な事件も起こりました。対馬丸の悲劇、戦争マラリアの悲劇、私たちは、このような沖縄戦の悲劇を二度と繰り返してはなりません。
 糸満市摩文仁にある、県立平和祈念資料館に県民の誓いの言葉があります。
 「沖縄戦の実相に触れるたびに、戦争というものは、これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。この生々しい体験の前では、いかなる人でも、戦争を肯定し美化することはできないはずです。戦争を起こすのは、確かに人間です。しかし、それ以上に戦争を許さない努力ができるのも、私たち人間ではないでしょうか。戦後この方、私たちはあらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねばと思い続けてきました。これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、譲ることのできない私たちの信条なのです」と書かれています。私は、6月23日が来るたびにこの言葉を思い起こします。

 今回、提出された条例案は、この沖縄県民の心情を逆なでするかのように、再び戦争のための準備をしているような危惧を抱かせるものであります。
 条例案は、国の武力攻撃事態法とそれにもとづく国民保護法がその大もとになっています。
 条例案の説明でも明らかなように、沖縄や那覇市への武力攻撃を想定したものになっています。その武力攻撃とは、敵の着上陸侵攻、ゲリラや特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空攻撃を想定しています。
 条例審議の中で、どの国が、那覇市のどこに着上陸侵攻してくることを想定しているのかなどの質問に対して、当局は、これから協議会で検討するという一点張りで、一切答えることができませんでした。

 歴代自民党政府はこれまで、ソ連脅威論を振りまいて日本への侵略の危険をあおり、有事法制の必要性を主張してきました。しかし、ソ連が崩壊して以後の国際情勢の大きな変化の中で、この種の脅威論はもはや説得力も失なっています。実際、政府が昨年12月に策定した「防衛計画の大綱」では、「冷戦終結後10年以上が経過し、米ロ間において新たな信頼関係が構築されるなど、主要国間の相互協力・依存関係が一層進展している」という情勢認識を示して、「見通し得る将来において、我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下していると判断される」と明記しているではありませんか。
 また、武力攻撃のときに、住民の避難といいますが、法案では、実際には、米軍・自衛隊の作戦行動を最優先する仕組みのもとで、作戦地域から邪魔になる住民を排除するために避難させようとするものになっています。住民の保護の名のもとに、沖縄戦では多くの住民が戦争に巻き込まれ犠牲になったのは、歴史の事実ではありませんか。
 さらに、今回の条例案は、消火や医療、負傷者の搬送などに市民を駆り出し、物資を収用し、報道を規制し、罰則までつけて、国民・市民を戦争に動員していく仕組みになっています。
 しかも、今回の条例案の重大なことは、那覇市に自衛隊なども加わった国民保護協議会を設置し、市民動員の計画を作成し、訓練を行い、市民への啓発を行おうとしていることです。
 まさに、日常的に、「日本が攻撃されるぞ」「那覇市が攻撃されるぞ」という危機意識を植え付け、普段から戦争体制に市民を組み込むシステム作りにほかなりません。そして、それは、日米軍事同盟体制維持、沖縄への新基地建設押し付け、軍備増強、米軍と自衛隊の一体化、軍事費増大、軍需産業の肥大化へとつながっていき、アメリカがアジアで引き起こす戦争に、日本も一緒に参加するという体制を作り上げていくことが大きな目的なのです。
 さらに、今回の条例案は、自衛隊などが参加し、国民保護協議会をつくって、保護計画を作るということになっていますが、一たんこの組織をつくってしまえば、市民の代表である議会が一切その内容に関与できないものになっています。まさに、議会のチェックなしに、備えあれば憂いなしと言って、戦前の軍部が侵略戦争へと暴走していったものと何にも変わらない恐ろしいものになっています。

 議場の皆さん、市民の皆さん、今度の条例は、国が決めたことだから、仕方がない、法律どおりに那覇市はやるだけと言っている方々もいますが、それで済まされるものでしょうか。戦争はいきなりやってくるものではなく、国民、市民の気がつかないうちにひたひたと忍びよってくることを教えています。

 1925年、大正4年、治安維持法制定。
 1931年、昭和6年、満州事変。
 1933年、昭和8年、小学校1年生の国定教科書の改悪。
 それまでの「ハナ、ハト、マメ、マス、ミノカサ」といった小学校の読本が、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」になり、小学校唱歌は、「春の小川はさらさらいくよ」から、「肩を並べて兄さんときょうも学校へいけるのは兵隊さんのおかげです」に変わっていきました。
 1938年、昭和13年、国家総動員法制定。
 1940年、昭和15年10月、大政翼賛会。
 1941年、昭和16年、真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発。
 1945年、昭和20年、沖縄戦。
 1945年8月、広島、長崎に原爆投下。

 1974年4月11日、自民党幹事長代理だった野中広務氏は、駐留軍用地特別措置法(特措法)の委員長報告の最後に、「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いを」と、喝破しました。

 皆さん、みんな「右へならえ」でいいのでしょうか。
 地上戦を体験した沖縄県民、那覇市民の平和への思いを私たちは国や全国に伝え、戦争を食い止める責務があるのではないでしょうか。国が決めたことだからで済ましてはなりません。

 2003年6月、武力攻撃事態法が成立しました。
 2004年1月、自衛隊のイラク派遣。
 2004年6月、武力攻撃事態等における国民の保護のために関する法律をはじめ、米軍支援法など関連七法が成立しました。
 2006年5月1日、在日米軍基地の再編計画の日米最終合意が行われました。
 2006年6月、この那覇市議会で国民保護法に基づく条例が提案されました。
 そして2006年、通常国会へ、戦前の治安維持法を思い起こさせる共謀罪法案が提出されました。
 同じく2006年、通常国会へ、愛国心などを強要し、国家が教育に介入できるようにする、教育基本法改悪案が国会に提出されました。
 2006年、そして、とうとう憲法改定のための、国民投票法案が提出されました。
 まさに、ひたひたと再び戦争のできる国への道、戦前になりつつあるのではないでしょうか。

 戦前、ナチスに最後まで抵抗し、敗戦までダッハウの強制収容所につながれた神学者、マルチン・ニーメラー牧師の有名な言葉があります。
 マルチン・ニーメラー牧師はこう言っています。

 「共産党が弾圧された。
 私は共産党員ではないので黙っていた。
 社会党が弾圧された。
 私は社会党員ではないので黙っていた。
 組合や学校が閉鎖された。
 私は不安になった。しかし黙っていた。
 教会が弾圧された。
 私は牧師だから行動に立ち上がった。
 しかし、その時はもう遅かった。」

 議場の皆さん、市民の皆さん、ワイツゼッカー元ドイツ大統領は、「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在に盲目になる」と述べました。
 我々は、ものを言わなければならないときには、ものを言う勇気を持ち、言うべきときに言わなければ、言うことができなくなる時期があるということを、歴史の教訓の中から引き出すべきではないだろうかと思います。

 1946年11月3日、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と日本国憲法が制定されました。
 憲法第9条に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と、規定されました。
 あの侵略戦争の反省と教訓から導き出された、世界に誇るべき規定です。この憲法の精神と9条こそ、私たちが平和に生きる道筋を示しています。今の時期こそ、私たちが大きな声を上げ、戦争につながる一切のものに、ものを言うべき時期です。

 二十数万人の貴い命が奪われた、沖縄、那覇市の議会として、将来に禍根を残さないような判断が必要だと思います。

 議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、反対するものです。
 議員各位のご賛同をお願いします。

2013年1月9日水曜日

新春・党旗びらき

日本共産党沖縄県委員会の2013年新春・党旗びらきが行われました。

私が司会を務めました。

新たまの年に 炭(たん)とぅ昆布(くぶ) かじゃてぃ
心から姿 若くなゆさ



新年のはじめに 炭と昆布のしめ縄を飾って
心も体も 若返るような 気持ちだ というような意味

きゆぬ ふくらしゃや  なうに ぢゃなたてぃる
つぃぶでぃうるはなぬ  つぃゆ ちゃたぐとぅ
 

お祝いの席での「かじゃでぃ風節」の一節で

今日のうれしさは、何にたとえられようか。
まるでつぼんでいた花が、露に出会って花ひらいたようだ

と、うちなー口で紹介しました。

若い人たちには、理解できなかったかもしれませんが、うちなー口を継承していきたいものです。

旗びらきは、今年を日本共産党躍進の年にしようと誓いを新たにしました。






2013年1月8日火曜日

沖縄平和記念資料館の「県民の誓いの言葉」を額装

沖縄平和祈念資料館の出口に掲げられた、県民の平和への誓いの言葉を、叔母で書家の仲松静子先生から数年前に贈呈を受けていた。

事務所に掲げてあったが、立看板作製やらの時に傷をつけないかと心配だった。

今度の正月には、額に透明なアクリル板で保護することにした。

ホームセンターに行って、ベニヤ板大のアクリルの板を買ってきてカットして額装のを保護した。

192センチと82センチの大きさだ。

これでほこりやいろんな傷から守ってくれるだろう。

一安心。

ちなみに、平和への誓いの言葉は次の通りです。



沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というのは
これほど残忍でこれほど汚辱にまみれた
ものはないと思うのです

このなまなましい体験の前では
いかなる人でも 戦争を肯定し
美化することはできないはずです

戦争をおこすのはたしかに人間です
しかしそれ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち人間ではないでしょうか

戦後このかた私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと
思いつづけてきました

これが あまりにも大きすぎた代償を
払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです




2013年1月7日月曜日

孫たちのためにも

正月休みに帰省をしていた娘と2人の孫が帰って行った。1歳と3歳のやんちゃ娘たちで、毎日大はしゃぎの日々だった。党活動や議員活動に追われ、息子や娘が小さいころもなかなかかまってやれず妻まかせだった。もっと一緒に遊んでやればよかったと今更ながらに後悔しても時遅しである。そういう苦い思いがあるだけに、せめて孫たちとは遊んでやりたいものだと、新春の街頭宣伝、集いなどの合間を縫って、可能な限り時間をとるようにした。

▶初詣に首里末吉宮に、石畳参道をだっこしたり、肩車をしたりしてお参りした。沖縄こどもの国も小雨の中を象さんやキリンさんなどを見、機関車のトーマスに乗せたりとして過ごした。孫たちが喜んでいるのか、孫たちに喜ばされているのか、あっという間に時間が過ぎていった。

▶子どもの国に向かう途中では頭上をオスプレイが飛んでいた。県民の総意、願いを踏みにじりるばかりか、正月という文化まで否定する傍若無人ぶりに心底から怒りが込み上げてきた。軍隊というのはそういうものなのだ。孫たちのためにもオスプレイも飛ばない、基地もない、平和でのどかな沖縄を残してあげたいのである。

▶柱に背比べの線を残して、娘と孫たちが帰っていった。次に来るときはどれほど大きくなっているのだろうか。この孫たちが成人になるまでには基地はなくなっているのだろうか。これからの私たちのがんばりにかかっているのだろうと、静けさの中で考えている。

2013年1月6日日曜日

孫たちが帰って行った

年末から里帰りしていた娘と孫たちが帰って行きました。

1歳と3歳のやんちゃ盛りの孫たちで、毎日が大騒ぎでした。

新年の街宣や新春のつどいなどもありましたが、その合間を孫たちとの時間に当てました。

はじめて動物園にも一緒に行きました。

孫たちと過ごした正月も終わり、さあ、また忙しい日々がはじまります。

2013年1月5日土曜日

議会だより64号発行

議会だより64号、2013年新年号を発行しました。

去年の11月・12月議会での一般質問を中心に報告しています。

ぜひご覧ください。

1面 2面

2013年1月4日金曜日

年初めそば

今年初めての沖縄そば、「首里そば」を食べた。

年初めそばだ。

おいしかった。

仕事始めの今日は、朝の6時半から金城町老人会のラジオ体操とコーヒータイムでスタート。

7時半には、儀保十字路で今年の朝立ち宣伝のスタート。

9時半に、正月ダンパチ(床屋で髪を切る)。

11時には、党旗びらきの志位委員長のあいさつを視聴。

12時、沖縄コンベンションビューローの新春の集い。

そのあと、県庁一階にある首里そばの県庁支店で、首里そばを食べた。

この首里そばは、私の事務所の近くにあった、首里の有名な「さくら屋」というそば屋さんの伝統を引き継いだそばだという。

腰が強くて、おいしいそばだ。

さくら屋が健在なころは、よく通ったもので、必ずと言っていいほどそばをおかわりしたものだった。

今年も粘り強く、腰をしっかりと据えて頑張っていきましょう。


2013年1月3日木曜日

正月の空にオスプレイ

正月の3日というのに腹が立つ。

今日、はじめて孫たちと一緒に沖縄こどもの国に遊びに行くことになった。

孫たちとと、楽しい動物園での時間が楽しみだ。

ところが、高速道路を走っていると、なんと頭上をオスプレイが飛んでいるではないか。

正月だというのに腹がたってきた。

沖縄の空を我が物顔で飛び交う姿に正月気分も吹っ飛んでしまった。

今年も、オスプレイ撤去、米軍基地撤去のために頑張らなければならないと新たな決意がみなぎってきた。

この孫たちのためにも・・・!

2013年1月2日水曜日

2013年を共産党躍進の年に

新年の2日目です。

昨日は、朝から夕方まで、宣伝カーで新年の訴えとあいさつを行ってきました。

今年を日本共産党の躍進の年にしましょう。

今年は、「躍進」です。

みなさん、がんばりましょう。

2013年1月1日火曜日

今年もよろしくお願いします

新年あけましておめでとうございます。

今年も激動の年となるでしょう。

未来への明るい希望を切り開くために全力でがんばります。

新年の仕事始めは今年も、城北おはよう会のラジオ体操からスタートしました。

ラジオ体操とストレッチをした後、恒例の新春の集い、城北小学校の中庭で会員の新春の舞を堪能しました。

これから、街頭からの新年のあいさつと訴えに行ってきます。

夕方までかかるでしょう。

今年もよろしくお願いします。




城北おはよう会の新春の舞