2009年6月30日火曜日

野中広務さんの赤旗特別インタビュー

元内閣官房長官の野中広務さんの赤旗の特別インタビューが話題をよんでいます。
コピーして、知事、副知事や自民党の議員などにも届けました。
今の「日本がおかしい」というのはみんなの共通した思いだと思います。
私は、これまでも、氏の大政翼賛会発言などを市議会などで引用させていただきましたが、今回のインタビューはさらに平和への思いが伝わるもので、多くの人に読んでいただきたいものです。
以下、赤旗からの抜粋記事を紹介します。


��特別インタビュー>野中広務さん 憲法・戦争・平和/いま日本がおかしい(しんぶん赤旗)
2009年6月27日付 1面・2面から

小渕恵三内閣で内閣官房長官を務めた野中広務さん(元自民党幹事長)に、憲法などをめぐって最近思うことを聞きました。野中氏は2003年秋の総選挙を機に衆議院議員を引退。その後、憲法や戦争と平和、政治の原点をテーマに全国各地を講演に歩き、テレビや雑誌上で活発な発言を続けています。

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 25歳で郷里の町会議員になり、衆議院引退までの52年の政治生活を通じて「宿敵」だったあなた方(「赤旗」)に私の思いを語るのも、いまの時代が、そうさせるのだと思います。

  ■議員引退の訳

 国会議員を退いて5年8カ月。私は全国各地で、ざっと300回の講演をしてきました。招かれる先にはあなた方と親しいグループや団体、また憲法9条を守ろうという会もあります。

 いま静かに日本の政治を見ると、おかしくなっていく日本を感じます。とくに小泉内閣の5年は、短い言葉で国民を狂わせて、アメリカ型の市場万能主義をそのまま持ち込み、アメリカの権益がかかわる戦場に自衛隊を派遣して日本社会の屋台骨を粉々にしてしまいました。私はこんな内閣と同じ時代に国会議員でいたら後世恥ずかしいと思い、議員を退いたのです。

 私自身は、軍隊経験は6ヶ月だけですが、あの戦争の時代とその後を体験した人間として、今日ほど日本の人々が、この国の進路を誤らないように明治以後の歴史を振り返り、平和を考えなければならない時はないと思います。

  ■大政翼賛会に

 01年10月、衆院本会議にテロ特措法案の採決がかかったとき、私は、本会議場を退場して棄権しました。03年6月のイラク特措法案が採決にかかったときにも本会議場を出て棄権しました。この法案が自民党総務会に示されたとき、自衛隊の派遣については慎重であるべきだといったのは、ぼくと野呂田芳成さん、谷洋一さん(ともに元農水相)の3人だけ。あとの議員は「こんなときに何をいっているのだ。自衛隊を派遣するのはあたりまえじゃないか」といっていました。

 正直いって僕はむなしさを感じました。自民党は戦争が好きな政党になってしまった。それこそ大政翼賛会時代にもどってしまったわけです。

 このできごとに先立つ1997年4月、衆院本会議で僕は、日米安保条約の実施に伴う土地使用にかんする特別委員長としての「沖縄駐留軍特措法改正案」報告で「この法律が沖縄を軍靴で踏みにじる結果にならぬように。…国会の審議が再び大政翼賛会的にならないように、若い人にお願いしたい」と自分の思いをつけ加えました。国会ルール違反と批判され、議事録から削除された経験があります。

 しかし、そのあと、特措法を積み重ねて自衛隊は地球の裏側まで出かけていけるようになってしまいました。

 私は、振り返って今も三つの特措法に対する自分の当時の判断は間違っていなかったと思っています。

��2面につづく)

聞き手 井上協
写 真 林行博

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��1面のつづき)

戦争に荷担しない道を

 最近、この国のこれからの平和を考えるうえで、僕が一番恐れているのは米軍再編です。米軍は米本土にあった米陸軍第1軍団司令部を座間(神奈川県)に移転させ、そこへ陸上自衛隊の司令部を集結させました。かつて日本は傀儡(かいらい)国家である「満州国」をつくり、そこに関東軍司令部を置いて、中国大陸を植民地化していく橋頭堡(きょうとうほ)をつくりました。あのときの日本の植民地政策と同じ考え方ではないでしょうか。当時と違うのは日本政府が、この米軍再編に3兆円ものお金を出そうとしていることです。

 (民主党前代表の)小沢(一郎)さんは、国連の下でなら自衛隊を海外に出してもいいなんておかしなことをいっています。こんどの総選挙で民主党が政権をとってもわれわれにとっても何の展望も開けないでしょう。また政界再編なんていっても、本当にまともにこの国の行方を決める政治家の集団はできないんじゃないかと思います。

 日米間には現在、安保条約があるだけで、平和友好条約はないです。やはり日米平和友好条約を結べる環境をつくらねば、日本はいつまでたっても米国と対等になれないと思います。

  ■憲法

 たしかにいまの憲法にはいろいろ矛盾はあります。しかし、わが国は日本国憲法の掲げる「戦争放棄」「恒久平和」の理念を一つのよりどころにして、自衛隊を海外に出したりすることを「卑怯(ひきょう)者」といわれても避けてきました。

 憲法を盾にして戦争に加担しない道を歩んできたんです。このことが戦後64年の平和につながったんです。一つ足を踏み出したら取り返しのつかないことになることは20世紀の戦争の一つ一つが物語っています。

 私は、この事実だけは何があろうと忘れてはいけないし、日本はあくまでも憲法の掲げる理念に則(のっと)って国際平和に貢献すべきだと思います。

 私自身は、憲法について、9条2項を変えて自衛隊を認め、しかし、海外へ出さないという規定にすべきと考えています。あなた方とは違うかもしれないが、これが実現しないうちは、9条を含めて現在の憲法を守るべきだと思います。

  ■戦争の傷跡

 私の生まれ育った京都府船井郡園部町(現在の南丹市)がある口丹波(くちたんば)といわれる地方には戦争前、マンガンなどの鉱山がありました。

 僕は子どものころ、鉱山で働く朝鮮人が、背中にたくさんの荷物を背負い、道をよろよろ歩く、疲れ切ってうずくまるとムチでパチッと叩(たた)かれ血を流しながら、はうようにまた歩き出す、そんな姿を見てきました。また私の家から300メートルほど先に大阪造兵廠(しょう)が疎開してきて、兵器を造るため連行されて来た朝鮮人が同じようにひどい仕打ちで働かされていました。

 戦後64年が経過した今も、戦争の傷は癒えていません。未処理の問題も数多くあります。

 北朝鮮との国交回復、賠償の問題も残っています。中国に日本が遺棄してきた化学兵器や中国残留孤児の問題もあります。多くの未解決の傷跡をみるとき、まだまだ日本は無謀な戦争の責任が取れていないと思います。そのこと自体が被害者の方々にとって大きな傷になっていると思われ、政治家の一人として申し訳ない思いです。

  ■歴史に学ぶ

 幕末から明治維新にかけて「富国強兵」が国是となって日清・日露戦争に突入し、その結果が「満州国」という傀儡国家をつくる、あるいは朝鮮半島を植民地にするという狂った時代をつくり上げてしまいました。美化された明治の改革ではあったけれども、このときのスタートがあの戦争の敗戦まで至っていたのか、そう思うとき、そこに焦点を当てて、もう一度、歴史を学ぶ必要があります。

 私は、子どもたちにしっかりと近現代史を教えてこなかったツケが、田母神俊雄・元航空幕僚長のような暴言を吐く人間が出てくるような、悲しい、いまの日本の狂ったような状況に拍車をかけていると思います。

 シビリアンコントロールが効かない状況が起きているのを、政治がどのようにチェックし、正常化していくのかというところにも力を置かないと自衛隊内部からの暴発によって日本の平和が脅かされる危険性があると思います。

 国の根幹を決めなくてはいけない政治家達が、しっかりした歴史認識にたって、再び誤った道へ走っていく流れにブレーキをかけなくてはならないと思います。

 去年あたりから「蟹工船」ブームといわれ若い人たちがまともに歴史に向かい合おうという気持ちが出ていることを非常にうれしく思い、また期待もしています。こういう輪が広がることで、日本が再び軍国主義になっていく道が閉ざされて、平和な国としてやっていけるスタート台に立てるのではないかと思います。

 そのための種を蒔(ま)いていく使命がわれわれにはあるんじゃないかと思っています。

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 のなか・ひろむ 1925年、京都府船井郡園部町(現南丹市)生まれ。大阪鉄道局(旧国鉄)入り、召集で陸軍に。戦後、園部町議、同町長、京都府議、同副知事をへて、83年衆院京都2区補選で初当選、以後当選7回。自治相・国家公安委員長、内閣官房長官、自民党幹事長を歴任。03年10月、解散・総選挙で衆院議員引退。

 現在は全国土地改良事業団体連合会会長など。著書に『私は闘う』『老兵は死なず 野中広務全回顧録』ほか。


2009年6月29日月曜日

沖縄県で初の新型インフルエンザの患者

今日は、夜の9時過ぎまで本会議、一般質問でした。

最後の質問者の前に、公室長が緊急の報告を行いました。

今日、沖縄で新型インフルエンザの患者が発生したとのことです。

海外からの帰国者で26歳の若者だと言うことで、症状は現在のところ軽くて自宅療養とのこと。

接触者の追跡などを行っているとのことですが、日頃の危機管理の訓練などが現実に試されることになります。

いずれにしても、私たち一人ひとりは、うがいや手洗いの徹底など、自分でできることはやらなければならないと思います。

県としても、インフルエンザの流行を阻止しるための万全の対策が求められています。

2009年6月28日日曜日

那覇市議選挙始まる

那覇市議選挙が今日告示されました。

定数が4削減さ大激戦です。

日本共産党は、現在の6議席から7議席をめざしてがんばっています。

市議選挙の直後の解散総選挙も現実味を帯びてきました。

今の自公の政治を変える絶好の機会です。

日本共産党を伸ばして政治を変えていきましょう。

2009年6月27日土曜日

明日、市議選告示

いよいよ明日、那覇市議選挙の告示です。

日本共産党は現有の6議席から7議席に議席増をめざします。

私の地域からは、私の跡継ぎのこまつ直幸が出ます。

みなさんのご支援を心からお願いします。

2009年6月26日金曜日

一般質問でした

今日、一般質問でした。

沖縄の米軍基地の一年間の電気、水道、下水道の料金と、思いやり予算から支払っている額の試算が明らかになりました。

思いやり予算からの支出が電気で、76億円、水道料金が19億1千万円、下水道料金が3億9千万円との試算でした。

合計で99憶円になります。

一方、70年代には無料だったお年寄りの医療費が今では有料になっていますが、75歳以上の県内のお年寄りの自己負担額の合計が84億円ということも明らかになりました。

私は、思いやり予算の電気、水道、下水道l料金を削って、お年寄りの医療費にまわせば無料にできる。

思いやる相手が違うのではと見解を求めました。

また、旧32軍壕の保存、公開についても質問しました。

仲里副知事は、何とか部分公開でもいい方法を見つけたいと答弁。

質問終了後、知事も、自分としても、何らかのいい方法がないかお互いに知恵を出し合っていきたい声をかけてきました。

その他の質問についても後日報告します。



32軍壕から拾ってきた石を示しての質問の様子

2009年6月25日木曜日

明日、一般質問

明日から県議会の一般質問がはじまります。

私は4番目です。

おそらく2時ごろになると思います。

がんばります。

2009年6月24日水曜日

何を伝えたいの、オカヤドカリさん。

沖縄県全戦没者追悼式が昨日行われた。

炎天下のもとサトウキビをイメージしたポールがゆっくりとそよ風になびく。

64年前も、暑い夏だっただろう。

そしてさわやかな海風が流れていたに違いない。

式典の最中に、オカヤドカリがどかからとも出てきて、私たちの前をゆっくりと歩いて芝生の中への消えていった。

ここにも、自然のゆったりとした風景があった。

この風景が地獄と化したのである。

逃げ惑う人々に、このような風景は目に映ったのだろうか。

鉄の暴風といわれた激しい爆撃、艦砲射撃のなかで、叫びと血のにおいと、るいるいと横たわる亡骸しか映らなかっただろう。

目の前を歩きまわるオカヤドカリを見ていると、本当にここで戦争があったのだろうかと思ってしまう。

このオカヤドカリはなくなった住民の魂の生まれ変わりなのかと錯覚してしまうほど、ゆっくりと式典会場を歩きまわっている。

そこには、沖縄のゆったりとした時間と空間があった。

ゆったりとした、この島で、64年前に地獄は起こったのである。確かにこの地が戦場になり多くの命が奪われたのである。

さわやかな海風がほほをよぎり、サトウキビがなびくなか、「戦争を繰り返してはいけませんよ」、「平和な島にしてください」と静かに語りかけているような気がして、オカヤドカリが消えていくまで見つめていた。



沖縄全戦没者追悼式に現われたオカヤドカリ、6月23日、摩文仁

2009年6月23日火曜日

64回目の慰霊の日

慰霊の日がやってきました。

暑い日差しが照りつける摩文仁が丘。

��4年前のこんなに暑かったのでしょうか。

県民4人に1人が犠牲になり、20万余の尊い命が奪われた沖縄戦から64年。

沖縄全戦没者追悼式が行われました。

サトウキビをイメージした白いポールが、時折そよ風になびく会場。

一番前の座った私たちの前の、内閣総理大臣、衆院議長、参院議長、総務大臣らが通り過ぎていきました。

「ざわわ、ざわわ、ざわわ、白いサトウキビ畑は・・・」と「サトウキビ畑」の歌が流れる中、の開会の辞、式辞、黙祷と式が進みました。

参加者の心に響いたのは、衆院議長の挨拶と小学生の詩の朗読ではなかったでしょうか。

議長は、この国の指導者が敗戦濃厚となっていたにもかかわらず時間稼ぎのために沖縄戦を決行したことや、基地の負担軽減が実現されていないことに言及し、沖縄県民への謝罪の気持ちが述べられ、基地の縮小、平和の実現を訴えていました。

議長の挨拶は、支持政党や立場の違いを超え、政権政党に身を置いていたものとしての反省の気持ちが表れていたように思えました。

総理の挨拶には、基地の負担軽減などはふれられていませんでした。

小学生の詩の朗読には、多くの参加者が涙を流しました。

すすり泣きのが聞こえてきたので、目を向けると、取材していた新聞記者も涙を流し、ハンカチで涙をぬぐっていました。

あの侵略戦争に命がけで反対を貫いた日本共産党の一員として、戦争を繰り返さないために、さらにがんばらなければと決意を新たに、犠牲になった方々の冥福を祈り焼香してきました。



サトウキビをイメージしたポールがそよ風に時折ゆれていました



黙祷



小学生の朗読に涙



小学生の詩の朗読に涙を流す新聞記者。その純真さに心打たれパチリ(本人の了解を得て掲載しています)



焼香

2009年6月22日月曜日

2009年6月21日日曜日

父の日

今日は父の日だそうです。

娘と息子から、かりゆしウェアのプレゼントをもらいました。

紺系と黒系の2着です。

大事につけたいものです。

今度の議会質問の時につけようと思っています。

まだ、ありがとうは言っていません。

明日、言おうと思っています。

2009年6月19日金曜日

6月議会一般質問を通告

今日の12時、、6月議会の一般質問の通告締め切りでした。

今回も、米軍基地問題などを含め8項目について通告しました。

質問は29日の月曜日の予定です。

以下が通告内容です。

��、知事の政治姿勢について、議会100年決議に関して問う。

 (1)、県議会の100年決議についての知事の所見と、県政にどのように活かしていくのか

 (2)、戦争の実相を後世に伝えていくために、どのように取り組んでいるか

 (3)、第32軍壕の調査、保存、文化財指定、公開について
  ① 県の保存計画とその計画そのものも公開すべきである
  ② 壕の全容の調査を行うことについて
  ③ 戦後65周年の来年にむけて可能な公開方法を検討すべきではないか。
例えば、壕の入り口の公開、壕の一部の側面に観察トンネルを掘り強化ガラスなど設置し側面からの壕内部が観察できるようにすること、また、守礼の門前の広場での壕の図面や写真等などの公開など、その気になれば方法はいくらでもあるのではないか。

 (4)、戦争で焼失した県民の貴重な文化遺産の復元計画について
特に、①御茶屋御殿、②中城御殿、③円覚寺の復元は重要であると思うが、県のこれまでと今後の取り組みについて伺う

��、県指定文化財について
 (1)、県指定文化財がその位置づけに照らして、きちんと保全、保存されているか。実態について
 
 (2)、首里当蔵町在の国学・孔子廟石垣が荒れ放題に放置されている。原因はなにか。ただちに保全措置をとることが必要である。

 (3)、同孔子廟石垣の公開遊歩道の設置及び、松崎馬場を復元すること

��、米軍基地問題
 (1)、訓練水域と鳥島射爆劇場問題返還を求めることについて
沖縄県も県議会もそろって返還を求めている。去年8月のわが党の防衛省交渉で「地方自治体等から要請があれば日米合同委員会に提起していく」と防衛省は回答していた。
しかし、今年の5月20日の交渉で確認したところ、「まだ日米合同委員会に提起していない。まだ事務レベルで意見交換している段階」とのことであり、沖縄の声を真剣に受け止めていないことがはっきりした。知事ももっと厳しく怒りをもって抗議し、返還を求めるべきと思うが見解を問う。

 (2)、九州や全国の米軍基地や自衛隊基地等では、沖縄からの米軍機の移駐、訓練で爆音や基地被害が増えている実態があるが、そこでは、「沖縄の負担軽減のため」というのが理由にされている。
しかし、沖縄では、嘉手納基地に見られるように、F22戦闘機の事実上の配備や岩国や外国からのF15やF18の飛来などで爆音、負担は増えているのが実態である。
  知事は、このことをどのように認識しているか。全国知事会、渉外知事会などでも沖縄の負担は減るどころか増大していることを共通認識にするように努め、全国的な基地の強化をやめるよう政府に求めるべきではないか。

 (3)、那覇市上空の米軍機の爆音が早朝から増大している。
   ① 那覇市上空の米軍機の飛行ルートと飛行している米軍機の機種、飛行回数、爆音等についての実態を明らかにされたい。
   ② 騒音測定器は設置しているのか。していなければ早急に設置すべきである。
   ③ 早朝からの爆音で不安に思う県民も多い。県に爆音110番を設置して、実態を把握すべきではないか

 (4)、思いやり予算、水光熱費について
   2月議会で沖縄の米軍基地の水光熱費について思いやり予算でいくら支出しているかを質問したが、県は答弁を避けた。
全国の米軍基地の水光熱費のうち思いやり予算から支出している割合は71.7%(H18)となっている。
直近の沖縄の米軍基地の電気、水道、下水道料金等はいくらか。その内、思いやり予算から支出されているのは推計でいくらになるか。

��、6月補正予算の県の経済対策について
  国の経済対策を受けての県の経済対策の予算となっているが、車の買い替え、備品費など本来、当初予算や通常の補正予算で行うべきものではないのか。現下の不況を克服する対策というより、これまでの各部局の事業の積み残しや、予算が確保できないでいたものを当てたということが否めない感がするが見解を伺う。
 
��、県の非常勤職員の賃金を物件費として扱っていることについて改善が必要ではないか。
  ① 県の21年度予算の中で、人件費扱いの「人の数」、物件費扱いの「人の数」と金額を明らかにしていただきたい。
  ② 6月補正予算中の物件費40億4千万円余に占める雇用に係る人数と額はいくらか。
  ③ 正職員は「“人”件費」、非常勤職員は「“物”件費」扱い。物扱いでいいのか。
  ④ 物件費として扱うことによって、常用雇用の仕事でありながら、非常勤職員に代替させている実態を覆い隠すものになっているのではないか。
  ⑤ 予算、決算の統計上の区分としても改善が必要でへないか。県としての改善ができるのか、そうでなければ、政府に改善を求めるべきではないか。

��、那覇市の生活保護の相談員、ケースワーカーが国の基準より不足している実態について県としての対応について

��、雇用問題について

 (1)、沖縄県内と本土の県事務所での相談窓口の設置、相談員の配置、増員、緊急宿泊所の設置などをこれまで求めてきたが、この間の取り組みと今後の対策の強化について

 (2)、派遣ぎりなどで住居を失った方々への緊急宿泊所の確保、生活相談、雇用相談など自治体が実施する事業に国はやっと緊急経済対策で財政支援を行うことになった。県は早急にこの事業も活用し、対策を強化すべきである。

��、わが党の代表質問との関連について

2009年6月18日木曜日

さとうきび認定農業者制度の廃止を沖縄総合事務局に申し入れ

今日、さとうきびの認定農業者制度を廃止し、生産者価格補償方式に戻すことなどの申し入れを、沖縄総合事務局に行いました。

申し入れには、県議団、南部地区の市町村議員団、農家の代表が参加しました。

総合事務局からは農林水産部農畜産課課長らが対応しました。

申し入れでは、この認定農業者制度によって、多くのさとうきび農家が生産をやめることになってしまい、沖縄の基幹産業であるさとうきびに重大な打撃になってしまうとそれぞれが実情の訴えました。

そして、この制度は廃止以外にないと求めました。


総合事務局側は、農水省で、条件の緩和などが検討されていると聞いているとは述べたものの、農水省が決めたことなのでで、農水省に内容を報告しますというような態度に終始し、総合事務局として、農家の声や実態を把握していないことがわかりました。

これでは、何のために沖縄総合事務局が存在しているのかが問われてしまいます。

5月20日には、東京で農水省とも交渉してきましたが、沖縄の声、農家の声を政府も聞かざるを得ない状況になるまで、県民世論を高めることが求められています。

そのためにがんばります。






2009年6月17日水曜日

住民要求で沖縄県南部土木事務所に陳情

先日の6月11日に、県道29号線歩道の改修と、真嘉比遊水地の多目的広場への手すりの設置などについて、南部土木事務所の担当と現場で交渉を行いましたが、昨日は、それに基づいて、沖縄県南部土木事務所所長にたいして陳情を行いました。

陳情には、5人の地元の方々と私・渡久地修県議、こまつ直幸市議予定候補が参加し、50人余の署名と陳情書を手渡しました。

南部土木事務所からは、所長、統括監、班長らが対応しました。

県道29号線(坂下通り)の歩道の改修については、「危険度は高い」との認識を示し、早急に改修する。遅くても、9月ないしは10月までには改修したいと約束。また、擁壁工事については検討するとのことでした。

さらに、真嘉比遊水地の多目的広場への手すりの設置についても、階段に手すりがなくて怖い思いをしているのは「自分も85歳の両親がいるのでよく理解できる。早急に対応する」(事務所長)と約束。水がよどんで臭いにおいがしていることについても、原因等を調査して対応すると回答しました。

参加した住民の皆さんは、これまでの願いが行政に届き改善されるとのことに喜びの声が寄せられました。

これからも、住民要求実現にがんばります。




2009年6月16日火曜日

沖縄県議会創設100周年

今日から始まった2009年第2回県議会(6月議会)で、沖縄県議会が創設されてちょうど100年にあたる。
琉球から廃藩置県、沖縄戦、米軍占領などを苦難のなかで、人権と財産、くらし、平和を守るために苦闘してきた100年だったのではないだろうか。

今日、県議会開会にあたり、さまざまなセレモニーなども行われた。

開会に先立ち、沖縄県立芸術大学の学生たち32人による琉球古典音楽の演奏が行われた。
かぎやで風節、辺野喜節、揚作田節が厳かに演奏された。

傍聴席には、復帰前の元立法院議員、元県議会議員の先輩たちが詰めかけた。

開会の後に、「議会100年に関する決議」を採択した。

本会議終了後には、元議員の先輩と現職の議員が記念撮影、記念植樹、5斗甕に現議員全員で泡盛を注ぐ100年古酒のセレモニーも行われた。

懇親会では、議会で口角泡を飛ばして議論した論客たちが和やかに懇談し、今後の沖縄の発展を誓い合っていた。

歴史の偶然だが、私もちょうど100年目の節目の年の県議会議員としての重責を担っている。

この100年の記念行事の小委員会の一員としても関わることができたこともありがたいと思っている。

なによりも、この100年の苦難の歴史を学び、先人たちの意思を引き継いで、今後の新たな100年に向かって希望ある県づくりに全力をそそぐ決意を新にしているところである。

以下、議会100年に関する決議を掲載します。

   議会100年に関する決議

 議会は、民主政治の根幹であり、地方自治の要である。

 明治42年6月28日、第1回沖縄県会が開かれ、本年はそれから100年に当たる。その間、我が沖縄県民は、幾多の苦難を乗り越えて今日の沖縄県を築いてきた。

 本県は、太平洋戦争で激しい地上戦の場となり、自然や貴重な文化遺産が破壊されたばかりでなく、20万人余の尊い命が犠牲となった。終戦後も、27年の長きにわたり米国の施政権下に置かれ、今なお米軍基地に起因する様々な問題が派生している。

 本県議会は、議会100年を迎えるに当たり、再び戦争の惨禍が繰り返されることのないよう恒久平和実現への念いを発信していくことをここに決意するとともに、先人の英知と努力で築いてきた歴史を踏まえ、県民の負託にこたえるべく、なお一層の献身を誓うものである。 

 平成21年6月16日
 沖縄県議会




元立法院議員、元県議会議員、現職県議会議員らの記念撮影



100年決議の前で、古堅実吉元立法院議員・元県議会副議長、外間久子元県議と



5斗甕に泡盛を注ぐ



2009年6月15日月曜日

明日から第4回県議会(6月議会)

明日から第4回県議会(6月議会)がはじまります。

国の経済対策を受けた、県の緊急経済対策の補正予算などが提案されています。

また、今議会は沖縄県議会発足100年目にあたります。

明日は、その記念の行事なども並行して行われます。


2009年6月14日日曜日

街頭から日本共産党の躍進を訴え

今日は午後から、宣伝カーで街頭宣伝。

首里地域の11カ所で、大企業言いなり、アメリカ言いなりの政治から、国民の暮らし、平和を守る政治への転換と、市議選と衆院選での日本共産党の躍進を訴えました。



2009年6月12日金曜日

久しぶりの雨

梅雨だというのに雨が降らない日が続いていたが、今日本格的な雨が降った。

道路は大渋滞。

水源地には雨は降っているのだろうか?

多くの県民の心配事である。

2009年6月11日木曜日

住民要求で県と交渉

昨日松川の住民から県道29号線・坂下通りの岸本外科前の歩道が陥没したり、大きく傾いていたりでとても危険。これまでも多くの人が転んでいるとの訴えがありました。

早速、今日、県の南部土木事務所の担当と現場で調査、交渉しました。

歩道が陥没して大きな段差になっているところや、車いすなら横転してしまいそうなほど歩道が斜めに傾いています。

県の担当も、危険であるとの認識を示し、早急に改善することを約束しました。

また、真嘉比遊水池の下池、中池は晴れた日には多くの高齢者などが、グランドゴルフなどで利用していますが、そこに降りる階段に手すりがないために、怖い思いをしています。

ぜひ手すりをとの訴えがあり、今日、県の南部土木事務所の担当と現場を調査し交渉しました。

県の担当もこれは必要だと思う、管理を委託している市とも調整して設置していきたいと述べていました。

この交渉には、地元の方々とこまつ直幸市議予定候補も参加しました。




坂下通りの歩道の改修交渉



真嘉比遊水池手すり設置交渉

2009年6月10日水曜日

当選から満一年があっという間に経過

 県議選挙で当選したのが2008年の6月8日だったので、ちょうど一年が過ぎた。

 当選してすぐに調査活動、本会議などと日々の活動に追いまくられてきたので月日が経つのもあまり気がつかなかった。

 おとといの経済労働委員会の視察のバスの中で同僚議員から「今日が満一年です」と言われて気がついた次第である。

 もう一年もたってしまったのか、このままいくと4か年はすぐに来るよとバスの中でしみじみと話し合ったものだ。

 そういえば、6月、9月、12月、2月と年4回の定例会も経験し、活動範囲が一気に全県に広がり、動きも政府要請などを含め、今までの比ではなくなているのは事実である。

 その分、調査や勉強なども今までの数倍しなくてはならないが、振り返ると不十分だと反省することひとしきりである。

 この一年で多くのことを学んだが、これはほんのスタートの年である。

 この節目に、初心に帰って勉強や調査活動をはじめとした本格的な活動に踏み出していきたいと思っている。

 そして、多くの県民のみなさんのご支援、ご援助をさらにお願いしたいと願っている。

2009年6月9日火曜日

司令部壕を戦争遺跡に―沖縄タイムス・記者のメモ

沖縄タイムスの記者のメモに登場していますので紹介します。

記者のメモ

司令部壕を戦争遺跡に

○・・・那覇市首里の第32軍司令部壕の調査を実施した渡久地修県議(共産・那覇市区)。

「多くの観光客が訪れる首里城の下にあるのに、まったく知られていない。

戦争体験者が年々少なくなる中、どうにか壕を保存し、活用できないか」と県に対し、戦争遺跡の指定を訴える。

壕内はツルハシ、スコップ、水筒などの遺品が多く残り、戦争のつめ跡を感じさせる一方、落盤や酸素濃度が薄くなる地点があり、危険な状況。

「部分公開は十分可能。県のやる気次第だ」と6月定例会で追及の構え十分。


2009年6月8日月曜日

職業訓練校を視察

県議会の経済労働委員会は今日、浦添と具志川の職業能力開発訓練校を視察しました。

浦添の職業能力開発訓練校で、非常勤の講師の雇い止めの問題がありその調査でした。

職業訓練校の半数以上が非常勤講師という正常ではない実態がそもそも問題ではないでしょうか。

健康であれば、定年まで働ける。70歳まで働けると言っていながら、突然の雇い止め通告。

県の「行革」に基づく安上がり労働などが原因ではないでしょうか。

このような重要であり、かつ恒常的な仕事であり、常勤で行うのが当然ではないでしょうか。

参加した委員の共通の意見でした。


2009年6月7日日曜日

黄色いてんとう虫

ゴウーヤーの葉にてんとう虫が来ました。

黄色の鮮やかな色をしたてんとう虫です。

とても小さな米粒ほどの大きさですが、鮮やかな色なのですぐに目につきました。

以前にも来ていましたが、カメラにうまく収めることができませんでしたが、今日は何とか写せました。

歌にあるように、「サンバにあわせて踊り出す」ことはありませんでしたが、ゴーヤーの葉を動き回っていました。


2009年6月6日土曜日

日本共産党演説会で訴え

今日、日本共産党演説会が2カ所で開催され、訴えを行いました。

市議の我如古イチロウ地域とこまつ直幸予定候補の地域の演説会でした。

どちらも会場いっぱいの参加者でした。

日本共産党議員の3つの役割と、日本共産党の大きな力について話しました。

市議選挙の投票日までちょうど一ヶ月後です。

6人から7人への議席増へがんばりましょう。

2009年6月5日金曜日

国学・孔子廟石垣の保全をと現地調査

首里当蔵の県立芸大の南東側、りゅうたん池の側に、県指定史跡の「国学・首里聖廟石垣」があります。

��993年6月11日に県の史跡に指定されています。

国学が1801年にm首里聖廟が1837年にこの場所に建てられたとのことです。

沖縄戦の艦砲射撃の被害を免れたのは、土の中に埋もれいたからとのことです。

その貴重な文化遺跡が、県立芸大の建設の際に発掘されて県指定の文化財として指定されたとのことです。

琉球での学問の歴史を知る貴重な遺跡であるとともに、近世の石積の発展をしる貴重なものだといいます。

ところが、この貴重な石垣が、現在は荒れ放題になっています。

宮良作前県議からの訴えを受けて、今日現場を調査しました。

石垣の姿を見ることは困難なほど、雑木で覆われ、石垣にも木が生えて、放置すると根が張って石垣を壊してしまいます。

教育委員会の文化財課長の説明も受けましたが、このような無惨な姿で放置されていることに呆然となりました。

県指定の文化財がこのように荒れ放題に放置されていることは一刻も放置できません。

急いで、保全措置などを申し入れましたが、県としての保全、保存、公開などについて6月議会でも取り上げて行きたいと思っています。

沖縄の貴重な歴史と文化財の保全のためにがんばります。




指定された当時の石垣



雑木、雑草に覆われ石垣



見事な石垣が雑木に覆われいる

身の丈より高い石垣が雑木で覆われている



階段も雑木で覆われている

2009年6月4日木曜日

32軍壕の調査―沖縄タイムスが報道

昨日の32軍壕の調査について沖縄タイムスが報道しました。

この記事をみて、元県議の宮良作さんが議会に面会に来ました。

宮良さんも、現役時代に32軍壕の保存を訴えていました。

今日の沖縄タイムスの記事はこちらをクリックしてください。font>

首里城の下に眠る戦争の傷跡―旧日本軍32軍司令部壕を調査

首里城の地下に南北に走る壕があることをご存じだろうか。

旧日本軍の32軍司令部壕のことだ。

サイパンが陥落し日本の敗戦が濃厚になっていたにもかかわらず、本土防衛のための持久戦として沖縄戦が続行された。

その司令部となったのが、この32軍司令部だ。

城西小学校から金城町の芸大第三キャンパスの後ろまでのびる司令部壕で約300メートルもあるようだ。

第1坑道から第5坑道まであり、いくつもの支線もあり、中には司令官の壕からいろんな壕があったようだ。

これまで那覇市議会でもこの壕の保存と公開について取り上げてきたが、去年、県議に当選して、県議会でも戦争遺跡としての文化財指定と保存、公開を求めてきた。

今日(6月3日)は、その一環で壕の内部の調査を行った。

保存状態がよくないとのことで、委託している業者の点検日にあわせての調査となった。

最初に、芸大第3キャンパスの金城町側の第5坑道から中に入った。

ヘルメットに長靴姿、懐中電灯を照らしながらの調査となった。

幅約2メートル、高さは、本来なら立って歩けるぐらいはあると思われるが、現在は、落盤防止のために鉄鋼が天井と横に打ち込まれているために、屈みながら進んでいった。

途中には支線と、いくつかの部屋が掘られている。

そこには、鉄兜、ツルハシ、スコップ、水筒、小瓶、靴底などが64年の歳月をへてボロボロの姿で横たわっていた。

途中、直径約1メートぐらいのル下水道管のような円筒形の管が出現した。

落盤防止のために、設置したとのことで、コルゲート管と呼ぶらしいが、中腰で40メートルほど進む。かなりきつい歩みで、何度も何度も頭を天井にぶつけてしまう。

ヘルメットをつけていなければ頭に怪我そしてしまうほど、ゴンゴンとうちつけてしまう。

コルゲート管を抜けると、足下はどろんこ状態である。

カニも出現。

案内者によると白いカニだという。日光に当たっていないので白くなっているとのことだ。

入り口から約130メートルのところで、登り坂になったが、崩落のため行き止まりである。

ここで、懐中電灯をすべて消してみた。

漆黒の闇と静寂。遠い彼方に、入り口から光がさしているのだろうかかすかに浮かび上がっている。不思議な光景。

沖縄戦で犠牲になった人々へ黙とうを胸の内でささげた。

次は、城西小学校側の第3坑道から入坑した。

ここは、竪穴からはっていった。

約10メートルほど降りて横穴へ。

酸素濃度が心配なので、「カナリヤ役」という、酸素濃度測定器を持った人が先導する。

エンジニア坑という細い横穴にそれていくと、坑道がそのまま水で埋まっている。

井戸ではないかと思うほど、ここで戦争があったとは思えないような、澄み切った水がたまっている。

当時の井戸ではないかと聞いてみたが、管理をしている業者は、この先にも壕が続いているようだと話していた。

第2坑道に合流し右折してを進むと、沖縄のニービ質の壕からクチャに変わっていった。

途中には、横穴などがあるが、突然、カナリヤの酸素濃度測定器が、ブ・ブ・ブ・と警戒音を発した。

濃度が19になり、これ以上の前進は危険だとのことで、引き返すことになった。

米軍上陸後、この司令部壕の中枢部分は日本軍の手によって爆発されたとのことで、調査も十分に進んでいない。

そして、戦後64年の歳月で壕も痛んできているという。

第2坑道の入り口付近には、調査の時に出てきた瓶が並べられていた。酒瓶か醤油瓶か、瓶の泥をぬぐうとDAINIPON・・・と名前が浮かび上がってきた。

ところで、県はこの壕の保存の重要性を認識し、保存と公開の計画も策定している。

ところが、現在は事実上の凍結状態となっている。

戦争を体験した世代が年々少なくなってきているもとで、再び戦争を繰り返さないという県民の願いと沖縄戦の実相を後生に正しく伝えていくためにも、この司令部の壕の調査、保存、公開はぜひ必要である。

この調査の結果、改めてその思いを強くした。




第2坑道で、フラッシュをたいているので明るく見えるが、真っ暗な坑道です。



第5坑道の行き止まり地点で



第5坑道の横の部屋。スコップ、ツルハシ、鉄兜などの当時の遺品



鉄兜、靴底、ビンなど

2009年6月2日火曜日

米軍占領時代の遺物―大中町の冠水対策で市と交渉

首里大中町の道路の舗装が昨日で終了しました。

報告がてらに地元を訪ねたところ、この地域は雨のときには、首里劇場方面などからの水がすべてここに集まるような地形になっており、道路も冠水し大変で、さらに、大中町倶楽部も浸水するとの訴えがありました。

現場を確認し、すぐに市と連絡をとり、さらに上下水道局を訪ねて、地域排水計画の有無などを確認し、4時から現場で交渉を行いました。

市からは、上下水道局と道路管理室から職員が参加。

地元のみなさんと、大雨時の状況を話し、大中町倶楽部は一番低い場所に位置しているため常に浸水している状況を訴えました。

この地域は、戦後米軍がコーラルを採取した場所で、小高い丘陵だったところが、このような低地帯になったとのことです。

また、そのための道路も戦後つぶれ地としていまだに補償問題などが解決していない個所もあります。

このような事情もあって、排水路の未整備となっています。

上下水道局もこの事情に理解を示し、一日も早く排水路が整備できるように努力すると約束しました。

また、道路管理室は、その間の応急措置として、大中町倶楽部への通じる里道の東と南側の入り口側にはグレーチングを設置し、雨水の流入をカットすることにしたいと約束しました。

米軍占領の後遺症でもあり、一刻も早く解決するためにがんばります。




ブログのリニュアール

ブログの表紙(テンプレート)のリニュアールを行いました。

これまでは、プロバイダーの提供されたテンプレートを全面活用していましたが、今回、知人の安里さんにお願いして、タイトル部分を製作してもらいました。

自分でと試みてみましたがさっぱりわからなくて、氏に助けを求めたところ快く引き受けてくれました。

これからさらに改良していきたいと思っています。

みなさんのご意見もお聞かせください。