2007年8月27日月曜日

「軍隊は民を守らない」・・・叔父の戦争体験記

叔父の仲松庸全氏から、封書と一緒に次の投稿記事が送られてきた。
すさまじい体験であり、同時代の沖縄県民のほとんどが同じような体験をしているのではないだろうか。
この体験が、叔父達の戦後の生き方、平和を求める原点になっているのだと思う。
多くの人にぜひ読んでもらいたいと思い、叔父の了解を得て、全文を以下、掲載します。
感想などがあれば、ぜひメールなどでお寄せください。叔父に届けます。



軍隊は民を守らない

仲松庸全

 戦争は、というより皇軍(旧日本軍)は、私の内心を変えた。それを意識したのは八月十五日だったように思う。南城市百名の豚小屋で「玉音」を聞いたが、何の感慨もなかった。敗戦は当然のことだったからである。
 決定的な敗色のなかで私は日本男児として自らを鼓舞し、沖縄戦を迎えた。
 首里を離れた時、満天を焦がして首里城が炎上した。奇しくも四月二十九日の天長節(天皇誕生日)の夜だった。いかにも崩壊する大日本帝国を象徴しているようで無念だった。
 約三ヵ月月南部戦線をさ迷い、地獄をみた。その間あちこちの壕に立ち寄ったが、皇軍に拒絶され、追い返された。沖縄人はスパイだと罵る皇軍の声を何度も聞いた。後の収容所では、軍にスパイとして虐殺された人々のこと、食料を奪われ、壕を追い出された人々の体験をきいた。
 最果ての摩文仁では、級友らと四人で恰好の岩陰に身を置いたが、皇軍に「そこを空けろ。出て行け!」と迫られ、軍刀の切っ先を鼻先に突き付けられた。どうせ死ぬのだと手榴弾を構えて対峙すると相手は退散した。最後の洞窟(ガマ)では、皇軍将校が一人ぼっちで泣いていた小学一、二年位の少女の顳顬(こめかみ)に銃口を当て射殺した。怒りに震えたがどうすることもできなかった。
 教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓をすべて暗誦し、「ちはやぶる神の兵」に憧れていた十七歳の軍国少年は、次第にその愛国心と情熱を失い、生きたい気持ちに変わっていった。
 南京大虐殺にも関与した第32軍牛島満司令官と長勇参謀長が自死し、皇軍の組織的抵抗が終わった六月二十三日から二ヵ月近くを費やしたある日、私は決死の覚悟で投降することにした。シャツで作った白旗をかざして壕を出た。案の定、途中不意に飛び出した皇軍将校が「青年!貴様国賊!叩っ切ってやる!」と叫び、日本刀で切りつけて来た。私は身を躍らせて躱し、海に向かって駆け降りた。少しタイミングが悪ければ切り捨てられていただろう。彼がそれ以上追ってこなかったのは、すぐ目前に敵艦艇が見張っていたからである。
 「美しい国」を標榜する安倍政権は、教科書を改ざんし、沖縄戦での住民虐殺の記述から軍の関与を削除した。「従軍慰安婦」や南京大虐殺の問題と共に歴史の真実を抹殺し、皇軍と侵略戦争を美化する歴史修正であり、九条改憲への暴走を加速させる改悪教基法、国民投票法と同一線上の布石だ。
 しかし、平時にはかっこよくても、軍隊は決して民を守らない。それは軍隊の本質である。沖縄戦の実相と戦後米軍の圧政、復帰後現在に至る日米軍事同盟の基地押し付けの実態をみれば明白である。現に今、海自艦が出動、県民を威嚇し、自衛隊による新基地建設事前調査を強行している。
 根拠のない教科書改変と歴史修正を断じて許してはならないとの思いを強くしている。
(「新日本歌人」8月号より)

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