20代のころからの知り合いの高江洲さんが、沖縄戦での遺骨収拾をしているので、一度現地を見てほしいと誘われていたが、選挙などがかさなり延び延びになっていた。
今日、やっと現地を訪れることができた。
西原町幸地。
コンビニで待ち合わせをして、迎えに来てくれた車を誘導されて現地にむかった。
幸地城の跡らしく、太平洋から東支那海までが見渡せる高地になっており、素人目にも戦闘の要衝だと理解することはそんなに難しくない地形である。
その高地から、東側の斜面にむかって下り、畑を横切り、林の中を下っていく。
足元も危なっかしくてロープを伝って何とか下っていく。
すると、斜面の途中にニービ質の土の塊の中で作業している一団がいた。
私の前を降りていた若い夫婦が、もくもくと作業している男性に声をかけてあいさつしていたようだが、その現場を見たとたんに女性のほうが絶句しすすり泣きの声が聞こえてきた。
続いて降りた私の目に入ったのは、もくもく何かを掘っている高江洲さんとガマフヤーの具志堅さんだった。
「高江洲さんごくろうさん」と声をかけて近寄ると、その光景には絶句してしまった。
5人の人間の骨がそこに横たわっているではないか。
無残な姿で。
ニービ質の土の中からほぼ完全な姿で日本兵(遺骨収集をしている具志堅さん、高江洲さんらの話)の人骨が表れている。
一体は、手榴弾か何かを浴びたのか頭と体がバラバラにとびちった姿であるが、残りの4体はほぼ完全な姿である。
仰向け、うつ伏せ、足は折れ曲がるなど正常な体型ではない。
胸や頭などに銃弾の跡があるとのことである。
この光景に、しばらくは声も出ない。
初めて目にする戦争の現場だ。
人骨の状況や、米軍の銃弾などから、この壕のなかで抵抗し、外側から多数の銃弾を撃ち込まれ、また、爆発物を投げ込まれたらしいとのことでる。
西原町幸地には、日本軍の「独立混成第22連隊第一大隊」が駐屯していいたとのことで、この部隊の日本兵ではないかとのことである。
5人のうち一人は、身長や骨の成長度合いからして、10代の若者ではないかとのことである。
学徒兵ではないかと話していた。
水を飲んでいる最中か、あるいは最後に水を飲もうとしたのか、アルミ製のヤカンがあり、一人の兵隊の手には湯呑が握られていた。
彼らは、なぜここで死ななければならなかったのだろうか。
沖縄戦は、本土防衛のための持久作戦として決行され、捨石にされたのである。
この沖縄線の現場を見ると、戦争を美化し、正当化することはできなはずだ。
なぜ、こんなむごい死に方をしなければならならないのか。
ただただ茫然と立ち尽くしてしまう。
我に返り、せめてもの供養にと、靴を脱ぎ、素足になって、木べらと刷毛をかりて日本兵を土の中からだしてやる繊細な作業をしばらく手伝った。
いかなる理湯があろうと、戦争は絶対に起こしてはならなし、ましてや、美化し、正当化することは絶対に許されない。
高江洲さんや、具志堅さんらは、この日本兵の名前をできるだけつきとめて、遺族のもとに帰してやりたいと語っていた。
この地では、今年の3月からすでに25体の遺骨を収拾したという。
戦後64年、この沖縄には、まだまだ多くの戦争犠牲者がそのまま放置されていることだろう。
この遺骨収拾もこのようなボランティア任せでいいのだろうか。
戦争を起こした国の責任で、最後まで責任を負うべきである。
一日早く故郷、遺族のもとに帰れますように。
合掌。
高江洲さんや具志堅さんらの了解を得て、一日でも早く遺族のもとに帰れるようにと写真を公開しています。
頭上に光っているのはアルミ製のヤカン。そのそばの白いのは一人の兵隊の握っている湯呑。
戦争はまだ終わってない、との印象が第一です。写真をみて息を呑みました。とぐちさん曰く戦争の美化・正当化はゆるされません。私も同じ考えです。
返信削除64年前の出来事といっても、ここで斃れている人たちはたちの父母と同世代です。
返信削除戦争は絶対に繰り返してはなりません。
初めてコメントをさせていただきます。
返信削除この記事をよませていただき、思わず私も息を呑んでしまいました。戦後64年とはいえ、まだまだこういう形で土の下にいるのですね。ボランティアでその掘り起しをしてくださっている方たちに頭が下がります。
あんな悲惨な戦争は二度としてはならないと訴えているように見えます。
はじめてのコメントありがとうございます。
返信削除生きていれば、今の私たちと同じような子どもたちもきっといたのでしょうね。
幸地城のすぐ近くに住む者です。幸地城について知りたくて検索していたらこちらにたどり着きました。
返信削除無念の死だったのでしょうね。心が締め付けられます。