2009年6月4日木曜日

首里城の下に眠る戦争の傷跡―旧日本軍32軍司令部壕を調査

首里城の地下に南北に走る壕があることをご存じだろうか。

旧日本軍の32軍司令部壕のことだ。

サイパンが陥落し日本の敗戦が濃厚になっていたにもかかわらず、本土防衛のための持久戦として沖縄戦が続行された。

その司令部となったのが、この32軍司令部だ。

城西小学校から金城町の芸大第三キャンパスの後ろまでのびる司令部壕で約300メートルもあるようだ。

第1坑道から第5坑道まであり、いくつもの支線もあり、中には司令官の壕からいろんな壕があったようだ。

これまで那覇市議会でもこの壕の保存と公開について取り上げてきたが、去年、県議に当選して、県議会でも戦争遺跡としての文化財指定と保存、公開を求めてきた。

今日(6月3日)は、その一環で壕の内部の調査を行った。

保存状態がよくないとのことで、委託している業者の点検日にあわせての調査となった。

最初に、芸大第3キャンパスの金城町側の第5坑道から中に入った。

ヘルメットに長靴姿、懐中電灯を照らしながらの調査となった。

幅約2メートル、高さは、本来なら立って歩けるぐらいはあると思われるが、現在は、落盤防止のために鉄鋼が天井と横に打ち込まれているために、屈みながら進んでいった。

途中には支線と、いくつかの部屋が掘られている。

そこには、鉄兜、ツルハシ、スコップ、水筒、小瓶、靴底などが64年の歳月をへてボロボロの姿で横たわっていた。

途中、直径約1メートぐらいのル下水道管のような円筒形の管が出現した。

落盤防止のために、設置したとのことで、コルゲート管と呼ぶらしいが、中腰で40メートルほど進む。かなりきつい歩みで、何度も何度も頭を天井にぶつけてしまう。

ヘルメットをつけていなければ頭に怪我そしてしまうほど、ゴンゴンとうちつけてしまう。

コルゲート管を抜けると、足下はどろんこ状態である。

カニも出現。

案内者によると白いカニだという。日光に当たっていないので白くなっているとのことだ。

入り口から約130メートルのところで、登り坂になったが、崩落のため行き止まりである。

ここで、懐中電灯をすべて消してみた。

漆黒の闇と静寂。遠い彼方に、入り口から光がさしているのだろうかかすかに浮かび上がっている。不思議な光景。

沖縄戦で犠牲になった人々へ黙とうを胸の内でささげた。

次は、城西小学校側の第3坑道から入坑した。

ここは、竪穴からはっていった。

約10メートルほど降りて横穴へ。

酸素濃度が心配なので、「カナリヤ役」という、酸素濃度測定器を持った人が先導する。

エンジニア坑という細い横穴にそれていくと、坑道がそのまま水で埋まっている。

井戸ではないかと思うほど、ここで戦争があったとは思えないような、澄み切った水がたまっている。

当時の井戸ではないかと聞いてみたが、管理をしている業者は、この先にも壕が続いているようだと話していた。

第2坑道に合流し右折してを進むと、沖縄のニービ質の壕からクチャに変わっていった。

途中には、横穴などがあるが、突然、カナリヤの酸素濃度測定器が、ブ・ブ・ブ・と警戒音を発した。

濃度が19になり、これ以上の前進は危険だとのことで、引き返すことになった。

米軍上陸後、この司令部壕の中枢部分は日本軍の手によって爆発されたとのことで、調査も十分に進んでいない。

そして、戦後64年の歳月で壕も痛んできているという。

第2坑道の入り口付近には、調査の時に出てきた瓶が並べられていた。酒瓶か醤油瓶か、瓶の泥をぬぐうとDAINIPON・・・と名前が浮かび上がってきた。

ところで、県はこの壕の保存の重要性を認識し、保存と公開の計画も策定している。

ところが、現在は事実上の凍結状態となっている。

戦争を体験した世代が年々少なくなってきているもとで、再び戦争を繰り返さないという県民の願いと沖縄戦の実相を後生に正しく伝えていくためにも、この司令部の壕の調査、保存、公開はぜひ必要である。

この調査の結果、改めてその思いを強くした。




第2坑道で、フラッシュをたいているので明るく見えるが、真っ暗な坑道です。



第5坑道の行き止まり地点で



第5坑道の横の部屋。スコップ、ツルハシ、鉄兜などの当時の遺品



鉄兜、靴底、ビンなど

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