2008年6月28日土曜日

「無言館」沖縄展

「無言館」の沖縄での展示会が明日までなので急いで見に行った。

去年、長野県に出張に行った折にぜひ見たいと思っていたが果たせなかったので、やっと願いがかなった。

何を期待していたのか定かではないが、一つひとつの展示されている絵の前に行くとそこで立ち尽く、絵そのものから命の重みが伝わり、どのような思いでこの絵を描いていたのだろうかとの思いにかられてしまう。

ひとつひとつに命があり、希望があり、それが断たれたのかと思うと不条理を恨まざるを得なくなる。


この写真は無言館の展示と併設して行われた沖縄の画家たちの絵の展示室。
絵の配置や明るさなど無言館の展示室とは対照的でした。
��無言館の展示は不許可になったが、この展示室は許可されました)

ニューギニア、ムッシュ島で 27歳で戦死した、高橋良松さんの絵の説明には
「召集令状が来た日、良松は『最後の見納めだから』といって大好きな観音埼の風景を写生に行った。『寄せてはかえす波のすがたがまるで哀れな自分の運命のよう、自分は生きて帰ってこられるのかしら』。良松のスケッチ帖はそんな言葉で終わっていた」と書かれていた。
近藤隆定の絵は、長野県の小諸の烏帽子岳を描いたものだった。24歳で戦死しているが、その場所が、沖縄の首里末吉町付近と書かれていたので、この青年は、末吉町の山並みや那覇、慶良間諸島を見ながらふるさとを思っていたのかと思うと、しばらくはその絵の前を離れることができなかった。
近藤隆定の遺品である「死亡告知書」には、「独立迫撃砲第四中隊 陸軍兵長 近藤隆定 
右は 二十年五月十日 沖縄本島首里末吉町付近の戦闘で戦死せられましたので、お知らせします」と書かれていた。
「終戦後、生家に届けられた白木の棺には、隆定の名を書いた一枚の紙切れがぽつんとは入っていただけだった」と説明板には記されていた。
「無言館」館主の窪島誠一郎氏は、「無言館」沖縄展に寄せて・もう一つのあいさつの中で、
「いったい私はどういう気持で、『無言館』をつくったのは、一口にいえば、私は自分の知らぬところで彼らの絵が消えてゆくのが怕わかったのだ。かれらの絵の消滅を容認することは、どこかで自分に不都合なもの、詳らかにしたくないものをひそかに処分する後ろめたさにも似ていた。自分がこれまで愛してきた『生きている画家』のためにも、そうした『生きられなかった画家』の絵からけっして眼をそらしてはならないと思った。いや、画家たちのためではなく、今『生きている自分』のためにも眼をそらしてはならないと思った」と書いてあった。
「眼をそらしてはならない」・・・。
私はその言葉にいざなわれるように、残念ながら、無言館の展示模様の写真の許可は得られなかったが、急いでペンを取り出し、このあいさつ文の一部や、いくつかの絵の説明を筆写した。
一人でも多くの人に伝えようと思ったからである。
この無言館に展示されている絵は、風景であったり、自画像であったりで、戦争の絵はまったくない。
それもそのはずで、画家たちが体験した戦争の絵を描こうにも描くことはできなかったのである。
このことが、かえってこれらの絵から戦争の酷さと命の重みが伝わってくるのであろう。
      

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