2014年1月28日火曜日

鉄血勤皇隊の留魂壕が発掘され現場を調査

沖縄戦で戦争に動員された沖縄師範学校・鉄血勤皇隊の避難壕、留魂壕が首里城の一角から発掘されました。

今日、その鉄血勤皇隊として動員された、日本共産党元衆院議員の古堅実吉さんとともに現場を調査しました。

首里城の復元のために発掘調査の際に出てきたもので、首里城の東側の山の斜面に掘られていました。

発掘を担当していいる沖縄県埋蔵文化センターの担当者から説明を受けましたが、古堅さんは当時の模様を細かく記憶していました。

1945年の3月31日にこの壕の前の広場で鉄血勤皇隊が結成され、当時師範学校の1年生だった古堅さんら386人が戦争に動員されました。

鉄血勤皇隊は通信隊、情報宣伝隊(千早隊)、築城隊、食料隊など4隊に編成されていたようですが、敗戦濃厚になりつつあった4月21日、軍から特別編成隊25人をだすように命令がくだされたといいます。
校長たちは大変苦悩したそうですが、25人で隊を編成。その隊は、首里城から更に東にある弁ヶ岳の守備隊に派遣され、そこに攻めてくる米軍戦車を食い止めるために、蛸壺に潜み爆弾をもって戦車の下に突っ込んで行き一人も戻って来なかったそうです。

その後、鉄血勤皇隊は軍とともに南部に避難し、悲惨な修羅場の中を彷徨う事になるのです。

このような悲惨で無謀な戦争に15歳から19歳の若者たちが駆り出され、師範鉄血勤皇隊は224人が命を落としていったのです。

摩文仁で最後に校長が、君たちは絶対に命を落としてはならない。必ず生きていけ、北部に避難せよとの言葉を聞かされ、玉砕ということが当たり前と思わされていた時に、生きてもいいのかと思い、北部に避難を開始し、途中で捕虜になったと話されました。

古堅さんの話に、言葉もでませんでした。

絶対に戦争を繰り返してはならない、辺野古新基地建設を絶対に許してはならない、古堅さんの固い思いは自らの戦争体験からでたものなのでしょう。

改めて、沖縄からすべての米軍基地を一日も早く撤去させなければならないとの思いを強くしました。


留魂壕の前で

当時の模様を語る古堅実吉さん

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