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その時歴史は動いた―瀬長亀次郎

昨日のNHKテレビの人気何番組―「その時歴史が動いた」の録画ビデオを今日見た。
1972年5月12日に沖縄が日本に復帰する「その時」までの瀬長亀次郎と沖縄県民の闘いを描いたドキュメント映画だった。

NHKが沖縄人民党委員長で、後の日本共産党副委員長になった瀬長亀次郎を取り上げた番組を制作すること自体が異例なことではないだろうか。それほど世界一強大なアメリカ帝国主義に対抗していった瀬長亀次郎と沖縄県民の闘いが一個人一党派の問題でなく、民族の尊厳と独立を勝ち取る壮大な誇りある歴史であったことを示している。

沖縄県民は、瀬長亀次郎をカメジロウと愛称のように呼ぶ。それほど県民の親しまれた身近な存在である。
私は、叔父の頼みで、浪人中に沖縄人民党の手伝いをやっていた時期がある。その時、1972年から73年にかけて瀬長亀次郎氏の運転手をしていたことがある。
朝、迎えに行くと必ず近くのお店に寄りタバコを買うが、必ず運転手の私にタバコを2箱渡すのが常だった。いろんなところで老若男女の県民に出会うが、みんな、「はい、瀬長さん」とか「はいカメジロウさん」とか、中には「はい亀さん」と近寄ってきて握手を求めた。絶大な人気だった。

今も、だいたい60歳以上の人の話を聞くと、必ずと言っていいほど、瀬長亀次郎の演説をどこまでも聞きに行ったと言うことを自慢げに話す。
番組の中で、那覇市で15万人が集まった演説会が照会されていたが、そういう人々の話によると那覇高校のグランドだと思われるが、首里中学校のグランドでの演説会や、各地の演説会の模様を私はたくさん聞かされてきた。
瀬長亀次郎の演説は、とにかく面白く痛快だと皆が口々にいう。方言を交え、アメリカ帝国主義をコテンパテンにやっつけたらしい。

瀬長亀次郎の話は政治家としてだけでなく、営んでいるマチヤ(お店)では、貧乏人のために、タバコや缶詰をあけて分けて売った話など、人間・瀬長亀次郎の話も尽きない。

今年は、瀬長亀次郎生誕100周年である。
瀬長亀次郎は、沖縄県民の闘いの歴史で誇りである。

番組のタイトルは、「忘れられた島の闘い」となっていたが、沖縄の闘いは忘れられたのだろうか。終わったのだろうか。
そんなことはない。基地は相変らず押しつけられ、沖縄戦の歴史の実相までもが歪められようとしている。

瀬長亀次郎が常々言っていた、そしてやり残した沖縄県民を苦しめている3つのマジムン(魔物)(①安保条約と米軍基地 ②本土大企業の横暴 ③自民党政治)退治に全力を尽くさなければならない。
番組の中で、瀬長亀次郎の声を久々に聞きこみ上げるものがあったが、私たちに向って、「これからが闘いの始まりだよ。がんばれよ」と言っているような思いを強くした。

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