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2007年8月7日火曜日

沖縄の高校への米軍車両の侵入事件は、戦場からの帰還兵か

米軍の車が前原高校に侵入する事件が起った。
先月にも、県立の擁護学校に同じく米軍の装甲車が侵入する事件が起きたばかりである。

傍若無人の米軍の行為に怒りが沸騰している。

私が、危惧しているのは、この侵入を行った兵士がイラクやアフガニスタンなどの戦場からの帰還兵ではないかということである。

戦場から帰てきた兵士が、沖縄の地を、戦場と同じ精神的な目、感覚で闊歩している、このことを思うとぞっとする。

この間の事件を、単なるミスですましては絶対にならない。

このままほっておくと必ずや重大事件が起きるのではないだろうかと危惧される。

基地そのものを一日も早くなくすことこそが求められている。

2007年8月6日月曜日

9条バッチを胸に

憲法9条の改悪を許すなの思いが全国で広がっています。
9条の会も6000を超えています。

そんな中、今日の昼過ぎに赤嶺政賢衆院議員の秘書の土方さんから思わぬプレゼントが届きました。

手紙には、「我が葛飾の知り合いから九条バッチを手に入れることができました。この華麗さは渡久地さんにピッタシだと思ったので、送らせていただきます」と書かれていました。

赤と黄色の10センチもある大きな9条バッチが2個入っていました。

私に似合うかどうか、さっそく胸につけてみました。

土方さん、ありがとう。







ブラジル移民99周年。サンビセンテ市長ら那覇市国際親善名誉市民に。

原爆が投下されてから62年目の8月6日を迎えました。
定例の儀保十字路での朝立ちお早う宣伝では、核兵器の廃絶を訴えました。

午前10時から、臨時議会が開催されました。
議案は、「那覇市国際親善名誉市民の選定の同意をもとめることについて」でした。
議決後、来日中の那覇市の姉妹都市である、ブラジルのサンビセンテ市の市長と市議会議長に、名誉市民の称号の顕彰式が行われました。

日本、沖縄からブラジルへ最初の移民が渡ってから今年は99年目に当たるそうです。
大変な苦労をされたようですが、サンビセンテ市の議長があいさつでこのことを述べていました。
また、本市とサンビセンテン市の姉妹都市締結も今年は29年目だそうで、来年は、ともに記念すべき年になります。


顕彰状を手渡す翁長那覇市長(左)と、テルシオ・アウグスト・ガルシア・ジュニオル・サンビセンテ市長(右)

その後、本会議では、新庁舎建設に関する調査特別委員会から、「調査報告書」の報告をうけ、「新庁舎建設に関する要請決議」を全会一致で議決しました。

私も、この調査特別委員会の委員として、今年に入って、県内、県外の類似市などの庁舎や議場などの視察をはじめ、専門家や当局からの意見聴取など、16回の委員会を精力的にこなしてきました。
私たちは、老朽化した現庁舎の現状から立て替えはやむをえないものとして、簡素で機能的な庁舎にすべきと主張。また、支所機能を充実させることによって、一局集中を避けることができ、かつ、市民サービスを向上させるべきと主張してきました。


この報告書をもって、特別委員会の任務は終了しました。

2007年8月5日日曜日

幸せの虹と飛行機雲。

参院選挙が終わったというのに、相変らず時間に追われています。

今日はその中で見つけたハッピーな出来事などを紹介します。

6時起床。城北小のおはよう会、ラジオ体操に参加。


そこで、久しぶりに幸せの虹が西の空に浮かんでいました。
ハッピー。

午前7時前。いつも見かける飛行機雲。今日はカメラを持っていたのでパチリ。
私たちが見上げていますが、はるか、約1万メートルも超えるところから私たちのラジオ体操を見ている人たちがいるのでしょうか。


午前9時過ぎ。久々に、儀保の末吉公園西森ゲートボール場。
今日は、定例の首里地区の大会。
約30人ほどが参加していました。


その後は、赤旗日曜版の集金とかねた選挙のお礼まわり。

午後は、久々に空手少年団の稽古に顔をだし、夕方は、台風4号の後片付けと、結構疲れた一日でした。

2007年8月4日土曜日

瀬長亀次郎の写真

先日のブログに、瀬長亀次郎さんの「その時 歴史は動いた」をみた感想を書きましたが、写真がその時にはありませんでした。
その話を聞いたあけぼの印刷の古謝将嘉社長がすぐに送ってくれました。
ありがとうございます。

その中から、那覇市長に当選しての市職員への話をする瀬長さんの写真と、立法院議員選挙の模様の写真を紹介します。

那覇市長としての挨拶   

選挙カー(トラックでしょうか?)から訴える瀬長亀次郎


今日、これから渡久地修事務所で参院選挙の慰労会です。
前半で、「その時 歴史は動いた」を見る計画です。
当時の話に花が咲くことでしょう。

2007年8月3日金曜日

生活保護は恥ずかしいことではありません

今日10時から議会運営委員会。
8月6日の臨時議会の日程について協議。

その後、生活相談。
69歳のOさん。
一時期、会社の社長さんだったが、事業がうまくいかず失敗。家も競売にかけられ、一家離散。
ホームレスのような状態のなかから、民商から豊見城市議を経て私のところにそうだんに。

現在の手持ちの現金は3000円。
生活保護の申請を行ったが、今日、明日をどう食いつないでいくかが当面の問題。
社会福祉協議会の緊急生活支援物資で対応。

Oさんは、生活保護の申請は「はずかしいことですね」と言う。
私は、違いますよ、Oさんは、これまで一生懸命にがんばって来て、不幸にも会社がうまくいかなくなって今のような状態なったが、これはあなただけの責任ではないですよ。こんな時のために生活保護法というのはあるのです。憲法25条は「国民は最低限度の生活を営む権利」を有するとし、国はこれを保障しなければならない義務があるのです。
けっして、恥ずかしいことではありません。
これからがんばって、早く、元の生活を取り戻すようにしてください、と励ました。

自公政治の元、、国民の貧困化は急速に進んでいる。
私たちの生活相談も深刻化している。
北九州市では、生活保護の申請を市が却下して、餓死者がまた出た。
本当に、国や自治体の憲法25条の精神を投げ捨てた結果である。

那覇市でも、自公市政のもと、生活保護への攻撃が強められている。

安倍内閣の弱肉強食の社会、貧困と格差をなくすために力を合わすことが大事になっている。

2007年8月2日木曜日

その時歴史は動いた―瀬長亀次郎

昨日のNHKテレビの人気何番組―「その時歴史が動いた」の録画ビデオを今日見た。
1972年5月12日に沖縄が日本に復帰する「その時」までの瀬長亀次郎と沖縄県民の闘いを描いたドキュメント映画だった。

NHKが沖縄人民党委員長で、後の日本共産党副委員長になった瀬長亀次郎を取り上げた番組を制作すること自体が異例なことではないだろうか。それほど世界一強大なアメリカ帝国主義に対抗していった瀬長亀次郎と沖縄県民の闘いが一個人一党派の問題でなく、民族の尊厳と独立を勝ち取る壮大な誇りある歴史であったことを示している。

沖縄県民は、瀬長亀次郎をカメジロウと愛称のように呼ぶ。それほど県民の親しまれた身近な存在である。
私は、叔父の頼みで、浪人中に沖縄人民党の手伝いをやっていた時期がある。その時、1972年から73年にかけて瀬長亀次郎氏の運転手をしていたことがある。
朝、迎えに行くと必ず近くのお店に寄りタバコを買うが、必ず運転手の私にタバコを2箱渡すのが常だった。いろんなところで老若男女の県民に出会うが、みんな、「はい、瀬長さん」とか「はいカメジロウさん」とか、中には「はい亀さん」と近寄ってきて握手を求めた。絶大な人気だった。

今も、だいたい60歳以上の人の話を聞くと、必ずと言っていいほど、瀬長亀次郎の演説をどこまでも聞きに行ったと言うことを自慢げに話す。
番組の中で、那覇市で15万人が集まった演説会が照会されていたが、そういう人々の話によると那覇高校のグランドだと思われるが、首里中学校のグランドでの演説会や、各地の演説会の模様を私はたくさん聞かされてきた。
瀬長亀次郎の演説は、とにかく面白く痛快だと皆が口々にいう。方言を交え、アメリカ帝国主義をコテンパテンにやっつけたらしい。

瀬長亀次郎の話は政治家としてだけでなく、営んでいるマチヤ(お店)では、貧乏人のために、タバコや缶詰をあけて分けて売った話など、人間・瀬長亀次郎の話も尽きない。

今年は、瀬長亀次郎生誕100周年である。
瀬長亀次郎は、沖縄県民の闘いの歴史で誇りである。

番組のタイトルは、「忘れられた島の闘い」となっていたが、沖縄の闘いは忘れられたのだろうか。終わったのだろうか。
そんなことはない。基地は相変らず押しつけられ、沖縄戦の歴史の実相までもが歪められようとしている。

瀬長亀次郎が常々言っていた、そしてやり残した沖縄県民を苦しめている3つのマジムン(魔物)(①安保条約と米軍基地 ②本土大企業の横暴 ③自民党政治)退治に全力を尽くさなければならない。
番組の中で、瀬長亀次郎の声を久々に聞きこみ上げるものがあったが、私たちに向って、「これからが闘いの始まりだよ。がんばれよ」と言っているような思いを強くした。